コラム/研究レポート

〔研究レポート〕インド太平洋における正統性(レジティマシー)の回復 防御的オルタナティブという選択肢

2021-03-31
神保謙(慶應義塾大学教授)
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「インド太平洋」研究会 第9号

「研究レポート」は、日本国際問題研究所に設置された研究会参加者により執筆され、研究会での発表内容や時事問題等について、タイムリーに発信するものです。「研究レポート」は、執筆者の見解を表明したものです。なお、各研究会は、「研究レポート」とは別途、研究テーマ全般についてとりまとめた「研究報告書」を公表する予定です。

アジアの安定と正統性(レジティマシー)

米国のバイデン新政権でインド太平洋調整官に就任したカート・キャンベルが、米フォーリン・アフェアーズ誌に寄稿した論文「アジア秩序をいかに支えるか(How America Can Shore Up Asian Order)」は、19世紀前半のウイーン体制後の「欧州の協調」と、現代のインド太平洋を対比させた興味深い論考だi。19世紀の欧州と現代のアジアには、新興国の台頭、ナショナリズムの勃興、自由主義と権威主義の対立、脆弱な地域制度など、類似する国際環境を見出すことができる。同論文では、19世紀の欧州が勢力均衡と秩序の正統性(レジティマシー)によって安定したシステムを構築したように、現代のインド太平洋の安定のために必要なのは、①勢力均衡の維持、②正統性に基づく秩序、③同盟国とパートナーとの連帯であると説く。米バイデン政権のインド太平洋戦略の方向性を示唆する思考様式として参照されるべきであろう。

上記の①勢力均衡をいかに維持し、どのように③同盟・パートナー関係を形成するかは、それ自体が重要な考察の対象である。本稿では、②アジアの安定を支えてきた正統性(レジティマシー)とは何かを確認しつつ、米バイデン政権の柱である民主主義・人権外交との関係性について考察することとしたい。

正統性の動揺

キャンベル論文が示唆するインド太平洋の正統性とは、長きにわたる安定を維持した域内の経済・金融・技術領域の相互依存性と、これに立脚した紛争を防止する運用システム(operating system)にある。1970年代後半以降のアジアの経済発展を担保する平和な国際環境を共有し、そのための紛争の平和的解決や、ルールに基づく貿易・投資関係の拡大などを通じた秩序こそが正統性を形作ったという見方である。

今日のインド太平洋で、この正統性を脅かしているのが、中国の軍事的・経済的台頭ということになる。中国も長きにわたって上記の正統性の受益者だったが、中国にとって最大の問題は、自らの国家目標の根幹をなす領土統一が、現状維持の延長によって達成し得ないことである。中国国内では東シナ海、南シナ海における海洋権益の確保、台湾問題の解決、新疆・ウイグル自治区や香港統治をめぐる問題を、妥協することなく獲得すべき価値との位置付けを強めているように見える。仮に①の勢力均衡が崩れれば、中国が力によって現状変更を行う誘引が生まれやすくなる。もしこのような行動が取られれば、数十年かけて培ったアジアの正統性は失われることになる。

また正統性の動揺は経済領域にも広がっている。中国が推進した国家資本主義は、国有企業やIT企業が牽引して資源・エネルギー分野、金融分野、IT・電信分野で世界市場シェアを拡大し、国家の余剰資本を元に政府系ファンドがこれを支援した。また一方で政府介入によって国内市場を保護し、外国企業から技術と知的財産の移転を促進した。こうした動きに対抗して、米国もトランプ政権期に関税をめぐる貿易戦争、対中投資規制、輸出管理、新興技術管理、政府調達制限などを通じて、高い水準の自由化や非関税分野のルールを設定する路線から、米国自身が離脱していったのである。

正統性の回復とオルタナティブの提示

冒頭のキャンベル論文に戻れば、バイデン政権のインド太平洋戦略の柱は、インド太平洋における「損なわれた正統性の回復」にこそある。もしこの正統性が回復できなければ、パワーバランスの変化こそ秩序変化の中心となり、「立場の衝突は武力で解決され、経済強制策が日常的に行使される。そして米国の同盟関係は弱体化し、小国は自治を失い、自由に行動できなくなる」と悲観的な見通しを述べているii

ただ現状のトレンドが継続する限り、正統性の回復は容易ではない。中国の軍事的台頭は、地域内の軍事バランスを不安定にし、米国のインド太平洋地域における戦域内戦闘のコストを大幅に上昇させるだろう。また、中国の経済的影響力の拡大は中華経済圏の拡大(インフラ等のハードウェアや、IT・サービスなどのソフトウェア)というアメと、経済強制外交というムチによって、地域における政治経済的な選択の自由を狭めることとなるだろう。

仮に米国が中国を排除するサプライチェーン、基準・認証、投資レジーム、貿易協定を推進し、機微・新興技術を国内に回帰(リショアリング)して「管理された切り離し」(デカップリング)を模索したとしても、地域内諸国は米国と歩調を合わせない、もしくは不承不承に部分的に同調する可能性が高い。インド太平洋域内のサプライチェーンから中国を排除することは困難であり、多くの民間金業にとって中国市場の成長機会を見逃すことはできないからである。また、域内諸国には米国の対中政策の妥協的姿勢への転換を警戒する認識もあるiii

米国と同盟国のみが正統性の回復を成し遂げることは実現可能性が低く、かつ米中を中心とする地域の根本的な分断のリスクを伴う。米国と同盟国は正統性の回復を政策目標に置くのではなく、正統性の防御的なオルタナティブを提示し続けることはできる。それは、中国がインド太平洋の正統性を蝕むスピードを遅らせ、また正当性を覆すコストを大幅に高めることにより、中国指導者の戦略的な計算を複雑にさせることである。

安全保障・軍事分野では、米軍の改革とグローバルな戦力態勢の見直しを推進し、同盟国との相互運用性を高めることによって、陸海空宇宙サイバーなど複合領域で競争できる体制を整えることが重要となる。仮に伝統的な戦闘領域で中国が優越したとしても、複合的なドメインを組み合わせることによってオフセットし、中国が一方的な現状変更を行う誘引を局限することが目標となる。

経済分野においては、高い水準の自由貿易・投資環境が民間企業の競争力とイノベーションを牽引するエコサイクルを作ることが重要である。中国政府が環太平洋パートナーシップ(TPP)協定参加に関心を示していることは重要であり、中国に開かれた経済改革を迫る梃子とすることが求められる。また、インド太平洋地域の膨大なインフラ需要に対し、日米豪(印)及び欧州諸国が協力して、質と透明性の高い融資チャンネルと技術支援を提供することが重要なオルタナティブとなる。

民主主義・人権外交と戦略的柔軟性

米国内では、米外交とイデオロギーの関係をめぐる興味深い論争がある。米戦略コミュニティ識者らは、米国の対中政策にイデオロギーを動員することは誤った考え (delusion)だと厳しく指摘するiv。彼らは大国間競争の中で米国は自らの利益を保全するのは当然だが、相手(中国)が米国の利益に適う行動をとれば決して追い詰める必要はないとする。イデオロギー対立のプリズムで中国を捉えると、米中の共存は不可能となり、結果として対中政策の選択肢を狭め、同盟国と強調することが困難になると警告する。

その一方で、米中関係は価値をめぐる競争に他ならない、と反論する論考があるv。この立場によれば、大国間競争は国家の利益のみで勝利をすることはできず、価値の動員が不可欠であるとする。ソ連との冷戦で米国がイデオロギーと価値の勝利を獲得したように、中国に対しても米国の自由・民主主義・人権の優越性を示し続けることが、米国の対外政策の伝統的な一貫性と信頼性を担保するという。

米国外交とイデオロギーの連接をめぐる論争は、バイデン政権の民主主義・人権を重視する外交に示唆的である。バイデン政権が2021年3月に発表した「国家安全保障戦略の暫定的な指針」では、民主主義の回復と人権の擁護への強い意欲を示しているvi。同月にアンカレジで開催された米中閣僚級協議でブリンケン米国務長官は冒頭発言で「新疆ウイグル自治区、香港、台湾、米国へのサイバー攻撃、同盟国への経済的な強制行為など中国の行動に対する我々の深い懸念についても提議する」と述べ、その後の楊潔篪共産党政治局員の異例とも言える長時間の反論を招いたことは記憶に新しいvii

ミャンマーでは2021年2月に国軍がクーデターを起こして政権を掌握し、不服従で街頭デモを続ける市民に対して武力弾圧を続けた結果、著しい人権侵害が生じている。執筆時点において、米国は国軍の関与する企業への制裁、及び通商・投資枠組みの合意に関する全ての取り組みの停止を発表している。

中国とミャンマーに対する人権・民主主義をめぐる外交は、インド太平洋地域が価値によって結束できるかどうかを示す重大なテストケースとなる。米国は譲れない価値を全面的に押し出し、同盟国にも結束を求める可能性が高い。しかし、上記の米国内論争が示すように、米国の譲れない価値が同盟国・パートナーにとっても等価値であることを意味しない。また、必ずしも人権・民主主義はインド太平洋諸国にとっての戦略資産とは言いきれないviii。こうした中で、経済的競争と同様に、価値をめぐる競争もインド太平洋の分裂をもたらすリスクが内抱され、そのリスクはバイデン政権の幹部の想定よりも深刻かもしれないのである。

こうした中でもインド太平洋のたどり着く場所は、防御的オルタナティブとならざるを得ない。それは人権・民主主義を重視するが、必ずしも入り口を閉ざす外交ではなく、出口を目指して伴走する外交とするべきということだ。対中政策における民主主義・人権問題は適切な戦略上の優先順位を定めるべきである。またミャンマーの著しい人権侵害は強く非難すべきだが、完全な孤立化を促すことは、結果としてミャンマーが中国の影響圏へと吸収される道筋を辿らせることとなる。

インド太平洋の安定を維持してきた正統性は、中国の台頭と米中対立によって動揺し、回復不能な段階にまで来ている。米国が主導してこの正統性を力づくで回復させようとすることは、かえって地域の分断を促進することになる。米国と同盟国・パートナー国が防御的オルタナティブで協調できるかが、バイデン政権期の地域秩序の鍵となるのではないだろうか。




i Kurt M. Campbell and Rush Doshi, "How America Can Shore Up Asian Order: A Strategy for Restoring Balance and Legitimacy", Foreign Affairs (January 12, 2021).

ii Ibid.

iii Jessica T. Mathews, "Present at the Re-creation?: U.S. Foreign Policy Must Be Remade, Not Restored", Foreign Affairs (March/April, 2021).

iv Elbridge Colby and Robert D. Kaplan, "The Ideology Delusion: America's Competition with China Is Not About Doctrine", Foreign Affairs (September 4, 2020).

v Hal Brands and Zack Cooper, "U.S.-Chinese Rivalry Is a Battle Over Values: Great-Power Competition Can't Be Won on Interests Alone", Foreign Affairs (March 16, 2021).

vi The U.S. White House, "Interim National Security Strategic Guidance" (March 2021).

vii 「米中外交トップ会談、異例の応酬」『日本経済新聞』(2021年3月22日)。

viii Bilahari Kausikan, "The Arena: Southeast Asia in the Age of Great-Power Rivalry", Foreign Affairs (March/April 2021).