理事長の琉球フォーラム講演録
第83回 琉球フォーラム(2月例会)東急ホテル ゴールデンホール
講師 小和田 恆氏 演題:『沖縄サミットの意義』
(1/2)
ただいまご紹介をいただきました小和田でございます。宮里理事長から大変過分なご紹 介をいただきまして、困惑しております(笑い)。 司会の方からさらにそれに追い打ちをかけて大学の講義を聞くというような話になりますと、私も何を話していいのか分からなくなり、具合が悪いことになったと思っております。
皆さんご承知の通り、世の中でギャップというのが一番怖いものです。
沖縄ではスキーをなさる方がどれくらいいらっしゃるか分かりませんが、私は雪国の出身でございますので、子供の時からスキーをしております。スキーで一番難しいのは急な坂を下ることではありません。ギャップの多いところをどうやって乗り越えるかというのが一番難しいのです。
昔、レーガン元米大統領が現役大統領の頃に、ウォルター・リップマンという大変著名なジャーナリストがおりましたが、その方が唱えたことで大変有名になった「リップマン・ギャップ」というものがあります。
冷戦対立が一番頂点に達したレーガン政権時代に、ソ連が軍備をどんどん拡張し、核能力を強化していきました。
それに対抗してアメリカもいろいろな形で軍備を強化しなければなりませんでした。
アフリカではアンゴラやモザンビークで米ソの代理戦争が行われ、ソ連が一方を応援するのに対抗して、アメリカも他方を応援しなければならない状況でした。
中南米ではニカラグアをめぐって同じように、国内の内戦がソ連とアメリカの代理戦争になる大変厳しい時代でした。
その頃にリップマンが言い出したのがリップマン・ギャップです。
つまり、「いま米国は大変危険な状況である。
世界が米国に期待している要請と、米国がその要請に対応して適応する能力との差がどんどん大きくなっている。
これをそのまま放っておくと大変危険なことになる。
米国としては、米国に対する世間の期待値を下げるか、あるいは米国の能力を高めるか、という選択を迫られている。
どちらかによってこのギャップを埋めないと、世界は危険なことになる」と唱えたのです。
これを世間ではリップマン・ギャップと称しまして、大変有名な言葉になりました。
ちょっと話が横にそれたようにお思いかもしれませんが、私も実はそのリップマン・ギャップに悩んでいるのです。
宮里理事長と司会の方から、いろいろ私の期待値を高めるような発言がありますと、どんどん皆さんの期待が上がっていきます。
すると話が終わった後で、皆さんが「何だ、つまらない話だったな」というふうになるのは目に見えているのです。
逆に「今日は他に講師がいないから、小和田を呼んで来て埋め合わせをすることにした。
皆さん今日は食事のあとお茶でも飲みながら、たいした話でもないとは思うけれどもゆっくり聞いて下さい」と紹介をしていただければ、あとで「それにしては面白い話だったな」というふうになるわけです(笑)。
ですから、大変立派なご紹介をいただくのは私としては大変名誉なことであり、お礼を申し上げなければいけないのですが、実は立派なご紹介をいただくというのは私に対して大変不親切なことになるわけです(笑)。
勝手なことを言って大変申し訳ありませんが、そういうつもりで今日の話を聞いていただきたいと思います。
私の能力の方を高めることはとてもできませんので、皆さんの期待値を下げることから始めたいと思うわけです。
さて冗談は別といたしまして、先ほどもお話がありましたように、沖縄サミットがあと半年も経たないうちに開催されるという状況になっています。
沖縄の皆さんのサミットに対する期待と、サミットを成功させるための努力とで街中が沸き立っているというような印象を私は受けました。
昨日空港に着きましてホテルに入りましたが、どこでも目に入るのはサミットを象徴する各国の旗でありました。
そういうわけで沖縄県民の皆様が、沖縄サミットにかける熱意の大きさというものをひしひしと身に沁みて感じます。
実は日本でサミットが開催されるのは今度が4回目であります。
しかし東京以外でサミットが開かれるのは、今回の沖縄が初めてであるということは皆さんご承知の通りです。
サミットが始まって今回で26回目になるかと思いますが、初めて東京以外のところでサミットが開かれる意味は大変大きいのものがあります。
では具体的にその意味というのは何なのでしょうか。
県民の皆様がサミットに期待されるものは何であるのか、またサミットが沖縄にもたらすものは何であるのかということについて、私が感じておりますことをお話をして、今日のお話の主題にしたいと考えてここにお伺いしたのです。
実は、その前にいったいサミットとは何であるかという問題があります。
言葉の解説から始めるわけではありませんが、サミットというのはご承知の通りG7ないしG8と呼ばれる7カ国から8カ国の世界の主要工業民主主義国の首脳が集まって開く「頂上会談」であります。
毎年1回開かれまして、今回が26回目にあたるわけです。
サミットという名前が付けられましたのは、それがご承知の通り山の頂上(いただき)という意味だからです。
それぞれの国において政治の頂点に立っている人、具体的に言えば大統領、国によっては総理大臣です。
そういう各国の政治の頂点に立つ人が集まって世界が抱えている最も重要な問題を議論し、その結果として各国の政策の調整をすることによって世界がうまく運営されるようにするのが、サミットのそもそもの由来であります。
ついでに申し上げますと、たまたま昼食会にこの私の座っておりました席で宮里社長からお尋ねがあった用語があります。
あるいは他の皆様も同じような疑問がお有りかと思いますので、ひとこと付け加えたいと思います。
それはサミット関連で新聞などでよくご覧になる「シェルパ」という言葉です。
シェルパというのは、多分大部分の皆さんがご承知の通り、エベレストなどヒマラヤに登る時に荷物を担いで助けてくれるネパール人の補助役の人のことです。
これはその部族の名前からシェルパと現地では呼ばれています。
首脳会談がサミットと呼ばれ、そのサミットを目指してみんなが努力をするわけですが、首脳を助けて補佐をする首脳の個人代表というものが任命されます。
各国に一人づつ付いて、その人が首脳の補佐をして首脳会談を成功裡に終わらせるという役割を担うわけです。
これはちょうど登山に例えると、「サミット」を目指す人を助けて荷物を担いで登るシェルパの役割に相当するので、サミットにひっかけて補佐役の人のことをシェルパと俗称する慣行が成立したのです。
あまり主題に関係のないことですが、皆さんの中に疑問をお持ちの方もいらっしゃるかと思い、ついでに申し上げました。
25年の間に計25回のサミットがあったわけですが、そのひとつひとつについて詳しく申し上げている時間はございません。
しかしこれまで25回のサミットを通じていくつかの特徴が浮かび上がってきます。
まず第一にサミットの起源からもお分かりのとおり、サミットは基本的には世界経済の運営を確保することを目的として、いわゆる先進工業国、市場経済原理に則って民主主義体制の下で経済運営を行っている主要民主主義工業国の首脳が集まって、共通の目標に向かって自分たちの政策を調整することを目指すということが、当初からの精神であったということです。
その精神は基本的には今日もそういうものとして続いていると言えます。
ただいくつか付け加えなければならないことがあります。
第一に、当初ランブイエ・サミットでは、先ほど申し上げましたように石油危機に対処するためにはどうしたらいいかという経済問題だけを中心に議論をしたのですが、その点で変化が生じているということです。
今日相互依存関係が発達して、経済の分野の問題が社会の分野の問題にもつながり、さらに政治の分野の問題にもつながるというような時代になると、経済だけ切り放して議論をするわけにはいかなくなってきました。
特に、時々刻々、その時その時のいろいろな大きな政治問題が出てまいります。
するとせっかくこれだけの主要国の首脳が集まっているのだから、政治問題についても、我々の考え方を意見交換をしてどういうふうに対応したらいいか相談すべきではないかということになり、徐々に政治問題が議論されるようになりました。
最近では政治問題の比重が段々大きくなってきています。
例えば昨年のケルンサミットでは、コソボ情勢をめぐって特にNATOの空爆によるコソボへの介入という事件のあとをうけて、コソボ(旧ユーゴスラビア)の情勢をどういうふうに収めて、世界の秩序を維持していくべきかということについて議論が行われました。
去年のケルン・サミットのひとつの大きな柱がコソボ情勢をめぐる問題であったことは、ご承知の通りであります。
そういうふうにサミットも議論される内容が昔に比べればより広くなり、また深いものになってきていると言えます。
第二の問題は、さきほどサミットは先進民主主義工業国家が集まって議論をする場だということを申しましたが、その点でも状況の変化が生じているということです。
第一は、サミット開始当時はまだ冷戦構造の最中(さなか)でありましたから、市場経済体制を奉じないで、全体主義的な計画経済体制を行っているソ連のような国は、いくら大国であっても、サミット・プロセスには入ってこなかったわけです。
ところが1990年のベルリンの壁の崩壊に始まる、一連の変化の中でソ連そのものがなくなってしまい、ロシアの新しい体制が生まれました。
そんな状況の中で、ロシア自身が全体主義的な計画経済というものを放棄して、民主主義と市場経済体制を奉じる国家に生まれ変わりました。
そういう変化を受けて、ロシアがサミット・プロセスに当初はオブザーバーとして参加し、その後さらに、より本格的な地位を認められてくるようになってきたという変化が出てきました。
昨今、新聞を賑わせ、沖縄の皆様にも大変関心がある中国のサミットへの参加問題も、そういう枠組みの中で、中国がサミットに加わることが、このようなサミットの本来の性格から考えてどうなのかということが、ひとつの論点としてあるのです。
他方、先進工業民主主義国家の首脳が集まると申しましたけれども、こんにち世界全体として、既に政治的には国民の参加による民主主義体制が、アフリカであろうと、アジアであろうと、あるいはラテン・アメリカであろうと、世界全体の大きな流れとなって出てきています。
経済の面についても、全体主義的な計画経済体制は機能しないということが、ソ連圏を中心にした計画経済体制の国々が全て失敗したことによって証明されました。
基本的に市場原理に基づく自由主義的な経済運営が勝利して、それが世界の経済システムの中心になってきているということです。
ですから第1回サミットが行われた時には、ひとつの主要な流れであった動きが、実は今日の世界においては現実に世界全体の体制を占める流れになってきていると申せます。
そういう中でサミットは、単に特定の価値、特定の立場を報ずる国々の集まりと言うよりは、むしろ世界の秩序を維持するための主要国の協議の場という色彩を強めてきたことも否めない事実です。
そういう面から、サミットがこれからどうなければならないのか、ということについては、いろいろな形でいろいろなところで議論されるようになってきているわけです。
そういう中で沖縄サミットは開かれるのだということを、まず申し上げたいのです。
さて、サミットはその間いろいろな問題に直面いたしました。
出来の良いサミットもありましたし、大変出来が悪く悪口を言われたサミットもあるわけです。
これは独断と偏見に満ちた私自身の考え方になりますけれども、今までのサミットの中で最も成功した出来の良いサミットだったのは1978年のボン・サミットだと私は思います。
1973年の第一次石油ショックをきっかけとしてサミットプロセスが始まったと申しましたが、その努力にも拘わらず、なかなか世界経済不況からの脱出はうまくいきませんでした。
そこで1977年のロンドン・サミットで、力を持っている国と力を持っていない国とが一体になって世界経済を動かすことに協力していかなければならないということになりました。
より力を持った国が、いわば機関車になって列車全体を引っ張っていくこと、そして比較的力のない主要国は、その機関車の牽引力を利用しながら一緒になって世界経済を立て直していくことが大切だという考え方が出てきました。
こが当時の言葉で「機関車論」と呼ばれた理論です。
そしてそれが実際に実行に移されたのが1978年のボン・サミットでした。
具体的にはその時に、一番力があって世界経済を引っ張っていく立場にあった日本やドイツに中心になって欲しいということでした。
そこで日本は7%の経済成長を約束し、ドイツは確か5%ぐらいだった経済成長目標に1%上乗せすることを目指すという形で一緒になってやろうということが合意されたのです。
目的の実現を目指す立場にあった米国は当時、必ずしも機関車の役を十分果たせる立場にあったわけではない状況の中で、その最大の問題である石油の輸入をできるだけ抑制することを約束することによって、日・米・独の三国が中心になって世界経済を回復軌道に乗せようということが合意されました。
このボン・サミットは、主要国が世界秩序を維持するために、それぞれ犠牲を払うということに合意して、世界経済はその後、大変うまくいったのであります。
もっともそのあと70年代末に第二次のオイルショックが起きた。
結果として回復過程は思ったとおりにはいかなかったこともありますが、全体としてボン・サミットがその後の世界経済の安定に非常に大きな役割を果たしたことは確かです。
もうひとつ重要なサミットとして申し上げたいのは、1983年のウィリアムズバーグ・サミットです。
これは米国がホスト国になってウィリアムバーグで開かれたサミットです。
この時は先ほど触れましたレーガン政権の時代であり、米ソ対立が最も激しく、冷戦構造が頂点に達した時代でした。
特にソ連が西ヨーロッパに対して中距離核ミサイルを配備する措置をとりました。
これはSS20と呼ばれる中距離ミサイルですが、それに核弾頭を付けて「いざとなれば西ヨーロッパを核攻撃するぞ」と脅しをかけました。
それに対して西ヨーロッパは大変脅威を感じました。
と申しますのは、イギリスとフランスは核国家ですが、ソ連の核に対抗するほどの力は持っていません。
西ヨーロッパがソ連の核に対抗できるのは米国の大陸間弾道ミサイルによる核です。
ところが西ヨーロッパだけが攻撃され、米国が攻撃されない時に米国が本当に西ヨーロッパを守ってくれるのかどうかということが、特に英仏にとって大変に大きな問題でした。
そのまま放っておきますと、米国と西ヨーロッパの間の同盟関係に亀裂が生じるという信頼性の問題が出てきました。
今度の北朝鮮のミサイル開発との関連で、日本が北朝鮮から核攻撃を受けたときに、米国は本当に日本を守ってくれるのかということが昨今議論になっておりますが、これと同じような状況が西ヨーロッパにおいて起きたのです。
これに対して米国と西ヨーロッパとが協議して、SS20に対抗しうる核弾頭を持った中距離ミサイル、パーシング_というの配備決定で対抗し、その結果、ソ連はSS20の対欧配備を撤回するすることが決められました。
それによって西ヨーロッパの安全が確保されたわけです。
しかしウィリアムズバーグ・サミットが重要だったのは、それだけではありませんでした。
当時日本の首相だった中曽根総理は、「ヨーロッパはそれでいいかも知れないが、アジアはどうなるのか?」という問題提起をされました。
つまり中距離弾道ミサイル・SS20は、ソ連の国境からイギリスまで含めてヨーロッパ全土まで達する核兵器ですから、ヨーロッパはそれに対抗する核兵器配備決定によってソ連は対欧配備を撤回しました。
ところがアジアの方にもやはり同じ中距離ミサイルが日本に到達することができます。
そういう中で日本は非核三原則を堅持しておりますから、それに対抗する核能力は自分が持っているわけではないことは勿論のこと、日本に例えばヨーロッパにおけるパーシング_と同じようなものを配備してソ連に対抗するという選択も日本にはないのです。
そこで日本はそういう解決ではなくて、ヨーロッパだけではなくアジアにもSS20も置かず、パーシング_も置かないという、いわゆる「ゼロオプション」という形で問題を解決することでなければ、アジアの問題は片付かないということを提起したのですその時に、有名な「安全保障の問題については、ヨーロッパの安全保障とアジアの安全保障とをふたつに分けて考えるわけにはいかない。
世界全体の安全保障の問題は不可分である」という主張を日本がいたしまして、結果的にはそういう形で意見がまとまったのです。
その意味でウィリアムズバーグ・サミットは、経済面でなく政治面において非常に大きな役割を果たした例として挙げることができるのです。
もうひとつだけ例を挙げますと、1990年のヒューストン・サミットです。
ご承知のように1989年6月に中国において天安門事件が起こりました。
その直後にパリでベルサイユ・サミットが開かれました。
そのサミットでG7は中国の人権弾圧を非難して、中国に対して制裁を加えることが決められました。
ところが、それだけで問題が片付いたかというと決してそうではありませんでした。
制裁をして中国を国際社会から孤立化させるだけでは、決して中国の行動が改められるわけでもなく、最終的に世界の秩序が維持されるわけでもありません。
中国が天安門事件でとった行動は国際社会として容認できないことを明確に中国に示すことは不可欠です。
しかし同時に、中国の行った人権弾圧は決して容認することはできないという立場を極めて明確に原理原則の問題として維持しながらも、逆に中国が内にこもってしまって国際社会から孤立して極端な全体主義的な行動に走ることを避けなければならないという難しい問題が出てきたのです。
そういう形での両者のバランスをとった対応が必要になってきました。
そこでヒューストン・サミットに際しては、日本が中心になって、中国を孤立させる方向に追いやるのではなく、中国に一層の開放改革政策を進めさせることを通じて、中国の人権問題に対する姿勢、あるいは対外的な硬直した姿勢というものをいい方向に持っていかせるという形の政策が大事だと主張しました。
それがG7のコンセンサスとして採択されたのがヒューストン・サミットでした。
その後こんにちまでの中国の発展の推移を見ていますと、このサミットがとった政策は正しかったことが、証明されているのではないかと思います。
いろいろ良い例ばかり申し上げましたけれども、中には必ずしも感心しないサミットもありました。
感心しないサミットだとして例を挙げると、その主催国の首脳からお叱りを受けるかも知れませんので、私も少し気を付けてものを言わなければいけませんが、私の頭の中で感心しないサミットとして記憶に残っているのは、1992年のミュンヘン・サミットです。
これは実は私の意見というよりも、世間でそういう評価が行われたという客観的な事実があります。
ミュンヘンサミットは、別名「フランク・シナトラサミット」という呼称で呼ばれました。
なぜそう呼ばれたのかでしょうか。
皆さんご承知と思いますがフランク・シナトラの大ヒットになった曲のひとつにマイウェイ(My way)という歌がございます。
正にミュンヘンサミットはマイウェイサミットだったのです。
どういことかと申しますと、1989年末にベルリンの壁が崩れて冷戦構造が崩壊しました。
そういう中で湾岸危機が90年に起き、91年に湾岸戦争という形で終結しました。
そして新しい国際秩序が国連を中心に生まれるという期待が起こったのです。
その中で、各国が協調し、努力をして責任を分担することによって新しい国際秩序を作ろうという機運が芽生えました。
政治の問題についても経済の問題についても、主要先進工業国が力を合わせて新しい秩序を作ろうという考え方です。
しかしちょうどその頃、経済の問題をめぐってはヨーロッパが大変難しい状況になっていました。
ヨーロッパに経済不況がきていたのです。
そういう状況を前にしてG7の各国は、皆が一致して共通行動をとることによってこの危機を克服する、という政策に合意することができませんでした。
1978年のボン・サミットのときのように各国が国内には評判の悪い政策をとることによって危機を克服しようとすることをせずに、各国がそれぞれ自分たちに都合のよいようにやろうという結果になりました。
当時各国の政権が、それぞれ国内的に弱い立場に置かれておりましたので、なかなか厳しい緊縮政策をとることができなかったわけです。
下手をすると自分たちの政権が倒れてしまうという状況の中で、各国とも自分に都合にいい政策をとろうとしたのです。
そういうわけで、結果的に各国がマイウェイで自分たちのやりたいようにやるという結果になったサミットでした。
その結果、世界経済システムの維持拡大ということには全然貢献しないサミットとして、識者から大変非難されたのがミュンヘン・サミットでした。
それでフランク・シナトラにひっかけて、フランク・シナトラサミットという渾名で呼んだわけです。
そういうふうに、これまでのサミットの歴史を振り返って見ますと、成功したサミットと失敗したサミットといろいろありました。
今度の沖縄サミットがフランク・シナトラサミットに終わるのか、あるいは先ほど私が良い例として申し上げたようなサミットになるのかは、我々の肩にかかっているわけです。
サミットは、サミットを主催する国の力量が試される場であります。
もちろん7ヵ国ないし8ヵ国が集まって、そこで政策協調をやるわけですから、主催国がひとりで決めるわけにはいきません。
皆が「うん」と言わなければ結論はうまくまとまりません。
しかし、その中でホスト役を務める主催国が、どれだけリーダーシップを発揮できるか、どれだけ皆を説得してひとつの共通の政策に力を結集することができるかということが、サミットの成否を決定する非常に大きな要素になってくるのです。
そこで、そういう目で今度の沖縄サミットを眺めて見たときに、どういうことが今度のサミットの大きな問題であり、どういうところにサミット成否がかかるということになるのでしょうか。
私は先ほどのご紹介にもありましたように、既に外務省の現役の立場は退いております。
外務省顧問という肩書きはございますが、実際の政策の形成に直接責任を持って携わっているわけではありません。
従って私がこれから申し上げることは、基本的に私の個人的な感じだという印象でお受け取りいただきたいということをお断りした上で、私見を申し上げたい思います。
私はこれからの世界にとって一番大きな問題は、冷戦構造が崩壊したあとの世界の秩序をどういうふうに再構築していくかという問題だと思っております。
冷戦構造下の二極構造の世界は、もちろん背後に米ソの核兵器を持った対立がありました。
これはヘタをすると全面的な核戦争になるかも知れないという危険な事態でした。
そうなると人類の破滅だということで、大変危険な状況でありました。
冷戦構造がなくなったことによってそういう危険な事態が消滅したことは、それ自体大変結構なことだという評価が一般的だと思います。
その評価に間違いがあるわけではありません。
しかしそれだけかと言うと、実は話はそう簡単ではないのです。
二極構造は、確かに全面核戦争という危険にさらされながら、しかし同時にいわば「恐怖の均衡」と呼ばれるものによっていわば仮りそめの平和が保たれたという意味で奇妙な安定状態になっていました。
いわゆる「MAD」と呼ばれる状況の下で支えられた秩序であります。
MADというのはご承知のように英語で「気違い」という意味ですが、同時にこれは「Mutural Assured Destraction」という英語を省略した造語を指しています。
皆さんの中に新聞などでそういう表現をご覧になった方がいらっしゃるかも知れませんのが、日本語では「相互確証破壊戦略」と申します。
もっともこの日本語訳ではいったい何のことなのか、何を意味しているのか分からないでしょう。
MADというのは、お互いを確実に破壊してしまう、あるいはお互いに破滅してしまうということが、相互に保障されているという状況が生まれたということなのです。
つまり、一旦米国が核兵器を使って全面戦争を始めれば、米国は確かにソ連をやっつけることができるかも知れないけれども、ソ連がそれに対して十分な報復能力を持っている中では、ソ連も自分が殺されるのとほとんど同時に米国をも殺すことができることになります。
従って全面核戦争というのは、お互いに相手を確実に殺してしまうと同時に自分も殺されてしまうという状況が作り出されたことを意味します。
その下において一定の奇妙なバランス、安定が保たれるという戦略がMADなのです。
これは大変非道徳的な状況だといえます。
万が一そういうことが起こったら大変なことになるわけです。
我々これに巻き込まれるかもしれない国の立場からすれば、これほど恐ろしい状況はありません。
ところが非常に逆説的なことですが、正にそのことによって冷戦構造下の50年近い歳月の間、曲がりなりにも平和が維持されてきたということも事実なのです。
それが道徳的にいいかどうかということは別といたしまして、ひとつの安定がそれによって作られているというのは否定できない事実です。
冷戦構造がなくなってしまいますと、そういう全面核戦争の危険はほとんどなくなったといえるでしょう。
これは大変素晴らしいことです。
しかし、同時にその安定の枠組みもなくなってしまいました。
具体的にどういうことかと申しますと、それまで押さえ込まれていた地域紛争が、どんどん勃発してくるという時代になってきたのです。
数字で申し上げますと、1988年という冷戦構造が終わる直前の事態に国連が関与した地域紛争は、正確な数は覚えておりませんが7つとか8つとかその程度で、10に満たないのです。
ところが1994〜95年、冷戦構造が壊れた数年後は、国連が関与している地域紛争の数は30ぐらいに増えてしまいました。
今日国連が関与している地域紛争は、世界で約50あると言われております。
なぜそれだけ増えたのでしょうか。
何も世の中が急に地域紛争を好むように変わったわけではないのです。
むしろ今までは二極対立の下で押さえ込まれていた地域的な覇権を求める動きであるとか、あるいは宗教的、人種的、文化的その他いういろいろな対立に基づいてもともと存在している地域紛争の種が火を噴くようになったということなのです。
なぜ火を噴くようになったかと言えば、冷戦構造の下であれば、全体としての米ソ間の対立という、ガップリ四つに組んだ横綱相撲のような対立の構図の下で、それぞれの陣営の中の地域的な争いは、極の中の秩序を混乱させることになるので抑え込まれていたといえるのです。
ところが、それがなくなってしまうと、かえって各地域における小競り合いは出やすくなってくるという、非常に逆説的な状況が出てくるわけです。
そういう目で見ると、二極構造がなくなったことは良いことだけれども、それに代わる新しい秩序の構造はどういうものなのかということが非常に重要な問題になってきます。
ご承知のように、人によってはそれは米国だけを極とした一極構造の秩序だということを申します。
しかし、私はこれは正しい認識ではないと思います。
なぜかと言えば、今日の世界は経済の問題を見てもお分かりの通り、決して一国だけがとりしきることができるほど単純な世界でないからです。
例えば東アジアにおいて経済危機が起きれば、それがロシアに飛び火したり、中南米に飛び火したりして、米国一国の力でこれを抑え込めるような状況ではないのです。
国力だけから見ても、米国の経済力は第二次大戦直後には世界のGNPの半分に近いものでした。
しかし、今日米国のが世界全体のGNPに占める比率は26〜27%、4分の1強というところです。
これはもちろん一国の力として見れば、大変強大な力ですが、世界経済全体を取り仕切るだけの力ではありません。
社会の問題になると、これはもっとはっきりします。
例えば環境問題を考えてみても、今日問題になっているのはグローバルな環境破壊です。
かつて日本に起きたような四日市公害であるとか、水俣公害のような問題は日本の社会にとっては大変重大な状況ではあるけれども、一国の中においてきちっと対応すれば、これを抑えきることができるような環境問題でありました。
ところが今日世界を脅かしている環境問題というのは、例えば世界全体の地球の温暖化という問題です。
これは米国であれ日本であれ、一国が一国だけでいくら努力しても、そのことによって問題が解決するようなものではないのです。
政治の問題についてすら同じことが言えます。
例えばコソボの情勢にいたしましても、あるいはもっと古い湾岸危機にしても、米国だけが軍事力を提供する力は持っていることは事実です。
しかし、米国一国だけでこの危機を押さえ込むという力を持っていたのかといえば、そうではないのです。
だからこそ、他の各国も参加した多国籍軍という形で秩序の回復が図られたのです。
そういうふうに考えて見ますと、いくら米国が強くても、米国一国だけでこれからの複雑化する世界の秩序を取り仕切ることは事態の状況かいっても不可能なのです。
確かに二極構造を形成していた二つのスーパーパワーのうち、一方のスーパーパワーはなくなって、米国だけが唯一のスーパーパワーであることは事実です。
しかしそのことから、だからそれが一極秩序というものに繋がっていくということにはならないのです。
逆にこれからは米国だけではなくて、EUだとかロシアだとか、中国であるとか、あるいは日本だとかというような、いくつかの国が対立する多極秩序になり、その間の力の対立のバランスによって秩序が維持されると唱える人もおります。
しかし、これも私は正確ではないと思っております。
多極秩序というのはいくつかの極の間に力の均衡が存在していて、その間にバランスが成立することによって秩序が維持されるという図式です。
ところが、こんにちの世界は、先ほど申し上げました経済の例、あるいは環境の例を見てもお分かりの通り、すべての国々が一つの共通の問題によってつながってしまっていて、しかも個々に異なった分野の問題が更に相互に関連し合っているという状況です。
そういう中で主要国がそれぞれの勢力圏を決めて「ここの地域は自分が取り仕切るから、あなたは干渉しないでもらいたい」というような形で、世界をいくつかの極に分けて、その中でそれぞれがバランスをとって秩序を維持するということのできる世の中ではないのです。
そういうふうに考えてまいりますと、これからの世界の秩序の維持は大変難しい問題になってきます。
それではどうしたらいいのでしょうか。
もちろん一番望ましいのは世界政府のようなものができて、世界全体を通じた人々の民主的な参加の制度によって一番望ましい秩序を決めていくという政治の仕組みを作ることでしょう。
政治の仕組みが民主主義体制によって決めるのと同じように、世界政府の下でひとつの秩序を作り出すことです。
しかし、そういう形は我々の目の黒いうちに来るとは思えないのです。
なぜかと言えば、いくら主権国家の力が相対的になったとは言っても、基本的に国際社会というのは主権国家が寄り集まって作っていく社会であるということには変わりがないからです。
我々一人一人が持っている民族感情、国民感情といったものが、世界政府の下で解消されるとは考えられません。
地域の住民感情や国民感情を無視して、世界全体の安定のために世界政府が決めるという形で、一切を取り仕切るということは現実的に考えられることではありません。
すると何が残るのかと申しますと、結局力のある国々を中心としたリーダーシップの下で、みんなの協調によってひとつの秩序を作っていくという形しかないのです。
これはある意味では村の共同体の統治の仕方と似ているところがあります。
みんなが寄り集まって相談をする。
その中には比較的力のある国と力のない国があるでしょうが、そういう国々が中核となりながら「こういうことでやろうじゃないか」ということを共同体全体のコンセンサスとして作り上げていくことによって秩序を維持していくというのがこれから21世紀の世界の秩序の在り方として唯一可能なことではないかと思います。
ところが実はこのやり方はげんじつには大変難しいのです。
まずみんなが「そうだ」と合意しなければなりません。
「私はいやだ」という国が出てくると、なかなかうまくいきません。
他方「私はいいよ」と言っていてもそういう形で秩序を維持していく方法に反対はしなくても、「それにコストを払うのは嫌だ」と言う国はあり得るわけです。
例えが適当かどうか分かりませんが、みんなで御神輿を担ぐ状況に似ております。
御神輿というのは、みんなが一緒になって御神輿を担ごうという共通 の意志があって持ち上がるのです。
何人かの人が「俺は担ぐのは嫌だ」と言ったら、それだけ力は減るわけです。
まして、担ぐような顔をして実は担がないでぶら下がっている人がいれば、これは大変なことになります。
みんなが「自分一人ぐらいはいいだろう」と思って手を抜いたら御神輿は持ち上がらなくなってしまいます。
これからの国際秩序というものはそういう性格のものです。
こういう風に、これからの秩序をどう維持していくのかということを考えますと、サミットが持っている意味合いが大変大きいということがお分かりいただけるかと思います。
つまりサミットとは、そういう協調型の秩序を維持していく上で、志を同じくする主要国がいろいろな重要な問題について意見交換をして、その結果ひとつのコンセンサスを作り上げるプロセスなのです。
こうして協調的秩序を作り出していくことが、21世紀の少なくとも当面の過渡期の秩序の在り方だとすれば、それを実現するためのプロセスとしてのサミットは大変重要になってくるわけです。
それでは、担ぐ御神輿の内容はいったい何になるのか?沖縄サミットに期待されるのはいったいどういうテーマなのだろうか?という問題に移ります。
私は今度のサミットのテーマとしてはいろいろあると思いますが、3つほど特に重要な問題があると思います。
第一は世界の今日の趨勢としてのグローバリゼーション、グローバル化する世界の中で、世界をどう発展させていくかという問題です。
グローバリゼーションというのは、ある意味では不可避の趨勢です。
好むと好まざるにかかわらず、国々の間の国境を越えて人間の活動が行われるようになっています。
特にインフォメーション・テクノロジーを中心にした科学技術の発展の結果、物事がそういうものを中心にして動いていくということになると、国ごとにこれを規制して、国の中でひとつの調和を作っていくというようなことは、とても期待できないことになります。
例えば今日経済活動はそういう日本の規制の枠を超えて行われています。
あるいは環境問題にしても、エイズ(AIDS)のような疾病にしても、国際テロにしても国境を越えてどんどん出てくるわけです。
グローバルゼーションのプロセスというものを望ましくないからやめたいと言っても、これはそうはいかないのです。
例えて申し上げますと、日本が17世紀の初めに外国の影響を受けるのはいやだといって国を閉ざし、250年間鎖国をやりました。
当時の世界においてはそういうことは可能であったわけです。
しかし19世紀も半ばになると、それは可能ではなくなるからこそ、ペリー提督が日本へやって来て日本に開国を迫り、日本は開国をして近代社会の仲間入りをしました。
今日のグローバリゼーションというのは、それをもっと極端にしたような状況です。
自分はそういう傾向は気にくわないから、それには加わらないという選択があるわけではありません。
事の必然としてグローバリゼーションということは当然起こるのです。
問題はそのグローバル化の傾向というものの中で、良い部分をみんなにいかに均霑(きんてん)させるか、また他方、それに伴う問題点をどういうふうに選り分けてそういうことが起こらないようにしていくかということです。
つまり事実としてのグローバル化というものは必然であるとしても、政策的にグローバル化の動きをどういう方向に持っていくのかということについて我々が知恵を出し合わなければなりません。
その意味ではグローバル化という状況は、産業革命に似ているところがあります。
ご承知のように、18世紀の後半から19世紀の初めにかけてイギリスでは蒸気機関が発明され、大変大きな文明史的な革命が起きました。
「産業革命」と呼ばれるものです。
それまでは人力、すなわち人間の力をエネルギーとして織物産業を営んでいました。
例えばヨークシャーの毛織物にしても、ランカシャーの綿織物にしても、全部手で紡いで人力によって織物を作っていました。
ところが蒸気機関ができて、そういうものがぜんぶ機械でやれるということになってくると、大変大きな革命が起きてきたわけです。
ここで革命というのは文化的、文明的な革命という意味です。
とても人力でやっていたのでは太刀打ちできないということで、手工業に頼っていた企業はどんどん駆逐されていきました。
それに対して、それはけしからんと言って対抗する人たちが登場します。
皆さんも学校の歴史の授業で習ったことを思い出されると思いますが、当時イギリスに「ラッダイト運動」というものが起こったのです。
ラッダイト運動というのは、「けしからんのは機械だから機械をぶち壊してしまえ。
そうすれば我々は昔ながらの安定した生活ができる」と言って、手工業をやっていた人たちが起こした運動、暴動です。
しかしそういうことで物事が解決できるわけではないことはちょっと考えてみれば当然分かることです。
産業革命の趨勢に対しては全く無力でした。
むしろ問題は、産業革命によって起きた機械化、能率化、効率化というものがもたらした事態でした。
放っておいても神の見えざる手に導かれて自然の調和というものが作り出されて世の中がうまくいくと考えた市場万能主義というものが、実はそうではなくて弱肉強食の世の中を作りだしてしまったのです。
その結果、イギリスにおいては貧富の差が非常に大きくなってしまいました。
それが19世紀のビクトリア朝時代のイギリスに大きな社会問題を生み出したのです。
ディケンズの小説に出てくるような世界が出てきました。
カール・マルクスが『共産党宣言』を書いたのが1848年でありますが、正にこういう状況の最中(さなか)に、マルクスはイギリスに住んで、イギリスの状況を目の当たりにして、『共産党宣言』を発表し、『資本論』を書いたのです。
イギリスの国全体として社会的な不安を巻き起こすということになりました。
そしてその結果生まれた貧富の差を放っておいて社会的公正が保たれるのかという反省から、イギリスの中で社会福祉をもっと重視しなければならない、貧富の差をもっと少なくしていかなければ、社会としての連帯が失われるという運動が出てきました。
それが今日のイギリスの社会福祉の基盤になったわけです。
グローバリゼーションというのは、ある意味でイギリス国内で起きた産業革命と同じような状況が、より世界的、国際的なスケールで起きているというふうに考えることもできるわけです。
つまりグローバリゼーションの結果、経済的な効率が変わる。
それがもたらす利益というものは、みんなが均霑することができます。
それは、自体として大変良いことです。
またそれはこういう動きは趨勢として、そうなっていくのことが必然であって、それを抑えることはできません。
しかし問題は、その結果出てくるいわばグローバリゼーションの陰の部分、マイナスの側面をどういうふうにして押さえ込んでいくのかということです。
それが一国内における出来事であれば、例えばイギリス政府がイギリスの国の利益という立場から、富んでいる人、貧しい人の全体を見た上で社会全体として調和のとれた形で、どういうふうに社会的な正義を実現するのかということを考えることになります。
この枠組みは日本においても基本的には同じです。
ところが国際社会においては事情が異なるのです。
先ほど申し上げましたように世界政府というものが存在しておりませんから、世界全体を見て貧しいところ、富んでいるところについて社会的公正の立場からどのように対処したらいいのかということ主体的に対処できないのです。
つまり、グローバルに世界全体の立場から判断して、政策に反映させて実行に移すような政府、あるいはそういう権能を持った機構が存在しないのです。
国際連合があるではないかと言われるかも知れませんが、国際連合にはそのような超国家的な力は与えられていません。
するとやはり、先ほど申し上げましたような協調的秩序の中で、主要国が集まってそういう問題への対応を主張するしかないのです。
世界全体の秩序という観点に立って、世界全体の人々に福祉を最大限にするという立場、人間一人一人の安全を最大限に確保するという立場に立って、どういう政策をとることが必要かということを協議して決めていくことが非常に重要になってきます。
私は沖縄サミットを迎える日本にとしては、このグローバル化の動きに対して、その良い面を伸ばし、悪い面を抑えていくためにはどういうふうにしていけばいいのかということこそ、第1に取り上げるべきだと思います。
それが沖縄サミットに課せられた最大の問題であると思います。
その基本になるのは社会的公正という概念であす。
ともすれば落ちこぼれそうになりそうな人たちをどういうふうにして国際社会全体としてそ中に統合していくのか、取り込んでいくのかということです。
そういうプロセスやメカニズムをどうやって実現していくのかという問題であろうと思います。
第2番目に、それと関連して世界全体の立場から見てもう一つの大きな問題は、開発の問題です。
ご承知かもしれませんが、今日の世界には一人当たり一日1ドル以下で生活している人が約10億人から20億人もいるのです。
世界全体の人口が60億人に近づいている中で、その4分の1から3分の1が一日1ドルで生きている状況なのです。
しかもこの貧富の格差は年々大きくなっているのです。
一日1ドルということは年間で365ドルということですから、日本の一人当たりのGNPの約100分の1です。
その格差は年々増大しています。
1960年当時の数字で世界で一番富んでいる20%の所得と、世界で最も貧しい20%の人たちの所得との格差はだいたい30対1でした。
それが1980年代の半ばになると60対1に拡大します。
そして今日それは90対1から100対1と、格差は大きくなっています。
そういう状況を放っておくとどういうことになるかということは明白でしょう。
国内のことを考えればお分かりになると思いますが、こういう状況が更に続けば貧しい人と富んでいる人がいるという単純に物理的な状況を超えて、国際社会が一つの社会として成り立つために重要な最小限の共通の価値観というものが、危機にさらされることになります。
社会として不安定になり、社会の崩壊が始まります。
私は21世紀の秩序安定ということは、開発の問題に本気で取り組まない限り決してあり得ないだろうと思っています。
むしろこの問題を放っておいたら21世紀は大変な世紀になるだろうという気がします。
ご承知の通り昨年のケルン・サミットでは、そのことが大変強く認識され、特に世界の中で最貧国と呼ばれる国々の累積債務を全部帳消しにしてしまうという決定がされました。
これは、それ自体として大変重要な一歩でありました。
しかしそれだけで問題が片付くわけではないのです。
もっと重要なことは、いかにして貧しい状況にある国々を経済的に自立させ、独り立ちできる国に持っていくのかという、総合的な戦略を策定して皆がこれに協力していくということではないのかと考えるのです。
1960年からプラスマイナス5年ぐらいの時期が、アフリカの国やアジアの国々が一斉に独立した時期でした。
その当時の統計を調べますと、アフリカの国々の一人当たりの収入と東アジアの国々の一人当たりの収入はほとんど同じだったことが判ります。
だいたい換算して200ドルから300ドルでした。
ところがアフリカはその後40年経ち、その時よりも平均して悪くなっています。
アジアの方はそれに比べて、東アジアについて考えれば10倍ないし国によっては50倍にも増えました。
それが何故か考えてみる必要があります。
つまり開発は、単にODAという形で、あるいは債務を救済するという形で財政的な援助をするだけでは足りないのであって、国全体が自立して立派な国になっていくための総合的な戦略を作っていくことが重要なのです。
その時にももちろんお金がなければ貧困の問題は解決しませんからお金は重要です。
しかしODAなど政府が行っている公的経済援助は、こんにちの経済のスケールからすると実は大変小さいのです。
直接投資だとか、あるいは貿易によって動いている金は、途上国との関係においても、政府の公的資金援助で動いている金の100倍ではきかないほど大きいのです。
おそらく1000倍ぐらいの金が動いているでしょう。
そうなりますと、直接投資をどういうふうにして促進していくのか、それから貿易において市場を開放して、途上国の国々の産品をどういうふうにして先進国の市場に持ってくるのかということが大事になります。
更にそれよりもっと大事なのは、資金を本当に国づくりに役立たせるためには、社会インフラ整備が重要だということです。
道路を良くするとか、港を造るとか、交通網を発達させるとか、更に最近のインフォメーションテクノロジーの発達した時代においては通信網を整備することは非常に大きな役割を果たします。
それに以上に大事なのは、こういう社会インフラのハードウェアを動かすためのソフトウェアともいうべき、人間の能力の開発です。
社会インフラをきちっと動かすことのできる人間をどうやって養成するのかということと、インフラを適正に動かして社会全体を活性化するための組織をどう作り上げていくのか、更には国の統治機構として民主主義的な制度をどういうふうにして実現するのかということが全て関連して考えられなければなりません。
そういったプロセスに国民全体を参加させることによって、国造りに向かってやる気をおこさせることが極めて重要になります。
そのための前提として教育の問題、衛生の問題などを総合的に考える必要があります。
ひとつの戦略の形に作っていかなければならないのです。
これが実は世界が対応を迫られている最も大きな問題なのです。
時間がありませんので詳しいことは申し上げませんけれども、実は日本はここ数年にわたって、いま言ったような新しい開発戦略を唱え推進し続けてきました。
しかもただ口先で唱えてきただけではなく、具体的にいろいろなイニシアティブをとってこれを推進してきたのです。
今日では世界銀行も、日本のそういう考え方に同調して、同じ方向に動き出してきました。
このような開発の新しい戦略を国際社会全体のコンセンサスとして、どのように固めていくのかとういうことこそ、沖縄サミットを含めてこれからのサミットにとって非常に大きな問題になるだろうと思います。
3番目は平和の問題です。
平和の強化ということは、当然誰でも賛成です。
しかし問題はどうすれば平和を強化できるかなのです。
平和が大事であることを唱えることは重要ですが、それによって平和が実現するわけではありません。
平和を実現するにはどうしたらいいかということを具体的に考える必要があります。
それは何かと言えば、やはり紛争をいかにして予防していくか、紛争を芽の段階でいかにしてなくしていくかということです。
具体的に言えば、紛争予防の戦略をどういうふうに作っていくかということなのです。
更に紛争が発生した時にも、これを封じ込めて大きな紛争に発展しないようにしていく戦略をいかに作るかということです。
このような広い意味での紛争予防、紛争封じ込めの戦略を、特に主要国はこれから一緒になって考えていかなければなりません。
そうしませんと先ほど申し上げましたように、世界の50もの地域紛争は、あちこちで大変大きな人道的な悲劇を引き起こし、難民を作りだし、殺し合いをする悲劇を作り出す結果になるのです。
こういう状況をどういうふうに押さえ込み、根絶していくのかが非常に大きな問題になってきます。
他にもサミットのテーマとして、いろいろ大きな問題はありますが、私はいま言った三つの問題、つまり第一に、グローバリゼーションに対応して、国際社会全体の人に一人ひとりの社会的公正の立場に立ったインテグレーション参加に取り込むことによって、どう国際社会を社会連帯の精神に基づいたひとつの共通の社会にしていくかという問題、第二に、開発の問題を総合戦略の形でどう進めるかという問題、そして第三に、平和を確保するために紛争をどのようにして予防し、かつそれを封じ込めていくのかという問題の三つが、21世紀を向かえるこれからの世界にとって一番大きな問題ではないかと思います。
したがって沖縄サミットにおいても、そういう問題がもっと具体的な形において取り上げられるサミットの中心課題になるであろうと思いますし、またなって欲しいと願うのです。
最後にこういうサミットが今年沖縄で開催されるということが、沖縄との関係においてどういう意味を持つのかということを考えてみたいと思います。
いま申し上げた三つの問題というのは、実は沖縄の皆さんにとっても主体的な問題として存在しているのではないでしょうか。
少なくとも私にはそういうふうに思えます。
沖縄ほど平和の問題の重要性を身を持って感じている地域は、日本の中で他に比存するものがないと言っていいと思います。
開発の問題につきましても同じことが言えます。
残念ながら沖縄県は日本全都道府県の中で、県としての一人当たりの平均所得が47番目だと今朝のテレビで言っておりました。
そういう意味で開発の問題は、日本の国の中の問題としても沖縄にとって最も身近な問題として存在しているのです。
開発の問題はアジア・アフリカの一部にとってだけではなく、沖縄の人たちにとっても最も切実な問題でもあるのです。
グローバリゼーションに対応して、社会適さんかを実現して、社会全体の中で連帯を持って協力していくこという問題についても、沖縄が1974年に日本に復帰して以来、沖縄の人たちが望み、かつ努力してきたことは、まさにそういうことではないかと思うのです。
日本の社会全体の中に、沖縄をどういうふうにして一体として取り込んでいくのか、そのことを通じて沖縄を日本の一部として、連帯の形成に基づいて繁栄や平和を享受していく存在にしていくにはどうしたらよいのか、そういう沖縄をどうやって作っていくのかということは、沖縄の皆さんにとって今日まで一番大きな問題であっただろうと私は思います。
そういう意味で、今度の沖縄サミットが問題にしなければならない世界の三つの主要な問題というのは、沖縄にとっても大変切実な問題だと思うのです。
それだけに今度のサミットの開催が、沖縄の人達にとって持つ意味は大きいと申せましょう。
同時にまた、サミットが沖縄で開催されることは、外の世界に対しても大変大きなメッセージを与えることになると私は思うのです。
いくら日本の中で国民が沖縄のことを考え、沖縄の人たちのことを思いやると言っても、現実の問題として目に見える形でそういうことを感じる機会は、沖縄の外にいる人たちにはよくあるわけではありません。
良いとか悪いとかということを言っているのではありませんが、実際問題として国民が一緒になってそういう問題に目を向けるというのは難しいことです。
サミットの機会に日本国民の目が沖縄に向けられること、沖縄サミットで起こっていることに対して注意を払うだけではなく、この機会に日本全体が沖縄に思いを馳せて、沖縄が抱えている問題を一緒になって考えるというような状況が出てくることは、大変素晴らしいことであり、また重要なことであると思います。
同時に世界的に見て、沖縄が日本の中で持っている意味合いを世界の人々に考えさせること、先ほど申し上げましたような世界全体として抱えている秩序の問題との関連において、サミットが世界の人々を沖縄の抱えている問題や苦しみや悩みに触れさせる機会になること、そして将来への希望に対して協力することができるような体制を作っていくきっかけになるということがあれば、これは大変素晴らしいことだと思います。
いろいろ申しましたけれども、そういうことを実現させることができるかどうかというのは、沖縄の皆さんの努力にかかっているとも言えます。
それはこのサミットの機会に皆さん自身が将来に向かって建設的な形で、沖縄の展望を開く努力をすることです。
沖縄のこんにち抱えているいろいろな問題について、過去を向いて嘆いてもあまり建設的ではありません。
むしろ将来に向かって沖縄の展望をどのようにして開いていくのかということを真剣に考え、このサミットの機会を新しい大きな一歩を踏み出すきっかけとして活用していただくことこそ、沖縄の皆さんにとって非常に大事なことではないかと私は思うのです。
時間になったようですので、私の話を終わりにしたいと思います。
ご静聴どうもありがとうございました。
質疑応答の頁へ進む

© Copyright 2001 by the Japan Institute of International Affairs
|