JIIAフォーラム講演要旨

2005年10月 4日
於:日本国際問題研究所

高島肇久 外務省参与、前外務報道官
「内から見た外交の現場」

去る7月までの3年間、外務報道官として外交の現場を見てきた。この間、北朝鮮やイラクをめぐる問題、国連改革、在日米軍再編など様々な重要課題に直面した。また、外務省は積極的に情報を発信して、自分たちの仕事に対する理解や支持を得ようという姿勢に転じた。

就任前後の外務省

2002年8月に外報官に就任した。それまでこのポストにはベテランのキャリア外交官が就いていた。私は半ば観客になったつもりで行った。当時の外務省には前年からの様々なスキャンダルの余韻が残っており、職員の意気も消沈していた。また02年5月に起きた中国の瀋陽日本総領事館での亡命者連行事件を受けて、世の非難が外務省に集中していた。しかし、この時には、外交の大きな波はまだ来ていなかったのだ。

対北朝鮮外交

就任後、韓国メディアが小泉首相の平壌訪問計画についての特ダネを放った。この報道どおりに訪問は実現した。私はその頃、外務省各課から当面の課題についてレクチャーを受けていたが、本件については担当課から何も知らされていなかった。

振り返ってみると、首相の平壌訪問後の日本での報道ぶりは極めて厳しかった。横田さん死亡などの内容がショッキングだったこともあるが、情報の出方がスムーズではなかった。拉致被害者の会は「外務省は敵」とまで言い出した。しかし、日朝国交正常化交渉や北朝鮮の核問題に関する6カ国協議などを経るにつれ、政府の情報の出し方にも微妙な変化が出てきた。6カ国協議取材記者の間で「日本のブリーフィングが一番正確で、過不足ない」と評判になったのは1年ぐらい前のことだったか。丁寧に説明して、国内で外交への理解が高まることは対北朝鮮外交を進めていく上でもプラスだ。

対イラク外交

02年秋に国連でイラク制裁論議が高まり、翌年3月に武力行使が始まった。これは日本にとって試練で、後からすると日本外交が変わったなと思わせる出来事となった。相次ぐ日本人の殺害・人質事件が起こり、当初は外務省の官房長と中近東アフリカ局長といった普段メディア対応に慣れていない人たちがテレビカメラの前で会見したため、「情報が出ていないのでは」との印象を与えたこともあった。その後のケースでは、外報官がブリーフィングすることになって、メディア側の対応も落ち着きを見せ始め、外務省批判もかなり薄まったような気がする。

04年3月に邦人3人がイラクで人質となった時、われわれは大変恵まれていた。アルジャジーラの知り合いが私に電話をかけてきて「人質の映像を入手したので、これから流す。正視に耐えない部分はカットする」と教えてくれた。放映を3時間待ってもらうよう交渉して、結局2時間待ってくれた。これで、日本政府は心の準備ができ、その後の対応に向けての態勢が整った。

国連改革

常任理事国入りを目指す日本など4カ国(G4)の取り組みは、安全保障理事会改革を現実のものとして世界に突きつけた。そうでなければ、アフリカはあんなに動かなかっただろう。G4はその役割を終えた。日本は米国ともう一度しっかり話し合って、新しい戦略を立てるべきだ。われわれが目指すものはまだ消えていない。

3年間を振り返って

かぶりつきで、こんな面白いものを見せてもらった、というのが率直な印象だ。解決に向けて道半ばの問題もある。国連改革、在日米軍再編などがそうだ。中国や韓国との関係はかえって悪くなった。

この3年で、外務省は随分変わった。積極的に情報を発信し、自分たちの仕事に対する理解や支持を得ようとするようになった。一方で、まだまだ改善すべき点がある。外報官の位置付けにも関わってくるが、外務省の情報発信体制が一本化されていない。これは外務省を取材するメディア側のあり方とも絡む複雑な問題だ。

以 上