中国の海警局艦艇による尖閣諸島周辺での連続航行は、7月12日で150日となった。この連続航行は、明らかに尖閣諸島侵奪を意図した中国の挑発行為である。歴史的事実として、尖閣諸島は日本の領土で、中国領ではないからだ。
本稿は、その尖閣諸島を中国領とし、「釣魚諸島はもともと無主地でなく、明代から中国領」だった。日本は「対清戦勝に乗じて、中国および列国の目をかすめて窃取した」等として、長く中国側の論拠の一つとされてきた井上清氏の論理を検証し、その誤謬を指摘するものである。
中国海警局艦艇の連続航行の背景
中華人民共和国が尖閣諸島に食指を伸ばしたのは1971年12月30日、外交部声明を通じて「釣魚台(魚釣島の中国名)は中国領」と主張したのが最初である。
その中国が、尖閣諸島に公船を出没させることになるのは、2010年9月7日、海上保安庁の巡視船に中国漁船が故意に衝突した事案がきっかけであった。それも1992年に「領海法」を制定し、尖閣諸島を中国領とした中国政府は、満を持して直接行動に出る時を待っていたのである。
その兆候はすでに2005年3月、島根県議会が「竹島の日に関する条例」を成立させ、竹島の領土権確立を日本政府に求めた時に表れていた。韓国の盧武絃大統領が日本に対して強硬な姿勢を示すと、その翌月、それに呼応するかのように中国国内では反日暴動が起こり、それがその後、常態化したからだ。韓中の反日感情の高まりを見たロシア政府も、2005年6月、北方領土問題を領土問題から歴史問題に転換すると、2010年9月には、中国政府とともに「第二次大戦終戦65周年を記念する共同声明」を発表した。以後、中露は東シナ海で共同軍事訓練を実施するなど、共同戦線を張ることになるのである。
それも2007年10月、中国の「保釣行動委員会」の抗議船が日本の領海を侵犯し、翌年12月8日には、初めて中国の国家海洋局所属の海洋調査船が尖閣諸島付近の領海に侵入した。中国政府による尖閣侵奪の戦略は、こうして静かにはじまっていた。
だが尖閣諸島は、歴史的にも国際法上も中国領ではない。中国側には尖閣諸島の領有権を主張できる歴史的権原がないからだ。そこで「横浜エイペック」(アジア太平洋経済協力会議)のため来日する胡錦濤国家主席に照準を合わせ、『大清一統志』(1743年刊)所収の「台湾府図」を2010年11月4日付の『産経新聞』で報じてもらうことにした。「台湾府図」では台湾の北端に「雞籠城界」と明記して、台湾の疆界は雞籠城(基隆付近)までとしているからだ。尖閣諸島は、その雞籠城から北東に170㌔ほどの位置にある。
ところが当日の『産経新聞』の一面を飾ったのは、海上保安庁の巡視船に中国漁船が追突する映像だった。『大清一統志』に関連した記事は二面に掲載され、「台湾府図」は公開されなかった。そこで2010年12月、『ウェッジ』誌のインタビュー記事で、「尖閣は中国のもの?覆す証拠ここにあり」と題して、改めて『大清一統志』(「台湾府図」)を証拠に、尖閣諸島は中国領でないとした。
しかし尖閣諸島が歴史的に中国領でなかった事実は、2012年9月11日、民主党政権が尖閣諸島を国有化した際も、中華人民共和国国務院報道弁公室が2012年9月25日、『釣魚島は中国固有の領土である』と題する白書を公開した時も、顧みられることはなかった。
尖閣諸島が中国領でない事実は、2013年3月に中国が海警局を創設して、2014年12月30日に対外広報サイト(『釣魚島-中国固有の領土』)を開設した際も、注目されなかった。
だがその対外広報サイトには、看過できない項目(「論文著作」)があった。そこでは井上清氏の『尖閣列島-釣魚諸島の史的解明-』(1972年刊)と村田忠禧氏の『日中領土問題の起源‐公文書が語る不都合な真実‐』(2013年刊)、それに矢吹晋氏の『尖閣問題の核心‐日中関係はどうなる‐』(2013年刊)の著書が紹介されていた。いずれも尖閣諸島を中国領とする論著とされ、中国側には都合のよい研究書であった。井上清氏はその論著で、次のように主張しているからである。
(1)釣魚諸島はもともと無主地でなく、明代から中国領であった。
(2)(日本の尖閣諸島)領有は日清戦争の勝利に乗じた略奪である。
だが井上氏の論稿では、件の『大清一統志』所収の「台湾府図」や雞籠山(台湾)を「中華の界」とした斉鯤の『東瀛百詠』等、自身にとって不都合な文献には触れていない。井上清氏の尖閣研究は、「尖閣諸島は中国領」を前提としていたからだ。村田忠禧氏と矢吹晋氏の尖閣研究が中国側に歓迎されたのも、その井上清氏の論理を踏襲したからである。
井上清氏の尖閣研究の問題点
1972年7月28日、公明党の竹入委員長と周恩来首相が会談した際、周恩来首相は「石油の問題で歴史学者が問題にし、日本でも井上清さんが熱心」と語っている。井上清氏が中国側に歓待されるのは、『尖閣列島-釣魚諸島の史的解明‐』所収の「なぜ釣魚諸島問題を再論するか」でも、次のような主張をしているからである。
「尖閣列島は、日清戦争で日本が中国から奪ったものではないか。そうだとすれば、それは、第二次大戦で、日本が中国を含む連合国の対日ポツダム宣言を無条件に受諾して降服した瞬間から、同宣言の領土条項に基づいて、自動的に中国に返還されていなければならない。それをいままた日本領にしようというのは、それこそ日本帝国主義の再起そのものではないか」
その井上清氏が、尖閣諸島を中国領とした論拠は、明清時代に琉球国(現在の沖縄県)に冊封使として派遣された使臣達の記録である。使臣等は中国と琉球を往還する際、尖閣諸島を目睹し、それを航路の指標としていた。明の海賊と連合し、倭寇が猖獗を極めた16世紀後半、胡宗憲が編纂した『籌海図編』には「沿海山沙図」が収められ、その海防範囲の中に尖閣諸島があったことから、それらを根拠に明代から中国領だったとしたのである。
井上清氏は、その明清時代の使臣達の記録として、陳侃『使琉球録』(1534年)、郭汝霖『重編使琉球録』(1562年)、汪楫『使琉球雑録』(1683年)、周煌『琉球国志略』(1756年)、李鼎元『使琉球録』(1800年)、斉鯤『続琉球国志略』(1808年)等を挙げている。
そこで井上清氏が注目したのが、周煌の『琉球国志略』である。そこには釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼等、尖閣諸島が描かれた「針路図」【図1】が載せられ、陳侃の『使琉球録』では、久米島(沖縄県久米島町)を「琉球に属す」としていたからだ。さらに汪楫の『使琉球雑録』では、久米島と赤尾嶼の間を「中外の界(さかい)」としていた。井上清氏は、琉球の久米島と赤尾嶼の間が「界」であれば、赤尾嶼からは「中国領」だとしたのである。
【図1】周煌『琉球国志略』「針路図」
一読すると、井上清氏の論理は理路整然としている。だが清朝の官撰地理志の『大清一統志』(「台湾府図」)では「雞籠城界」【図2】として、雞籠城(基隆付近)を台湾の北端の境界としていた。この事実は、清代になっても、尖閣諸島は台湾の一部ではなかったことを示している。
【図2】『大清一統志』「台湾府図」(「雞籠城界」)と部分(右)
では井上清氏は何故、「尖閣諸島は中国領」としたのだろうか。それは井上清氏の場合、次のような動機で尖閣諸島問題に臨んでいたからである。
「いま急がなければならないのは、釣魚諸島の帰属問題を正しく解決して、日本帝国主義が、この問題で国民の間ににせ愛国主義をあおりたて、現実に外国の領土侵略の第一段階を完了する(それが完了されれば第二段階以後はきわめて容易になる)のをくいとめるため」
そこで井上清氏は、「歴史家は歴史家なりに、できるだけのことを、とにかくやることである」、「まだ歴史家は誰も公然と発言していない釣魚諸島問題の歴史学的議論をさそう一助」にと、考えたのである。
だが井上清氏の論著は、「歴史学的議論」よりもプロパガンダの側面が強かった。歴史家を自任するなら、『大清一統志』や『台湾府志』等の文献にも広く当たり、台湾と尖閣諸島の関係を明らかにすべきだった。しかし井上清氏は、「尖閣諸島は中国領である」とする前提で文献を渉猟したようで、その尖閣研究は「歴史学的議論」とは程遠かった。
『大清一統志』と『皇輿全覧図』
2010年12月、『ウェッジ』誌のインタビュー記事で「尖閣は中国のもの?覆す証拠ここにあり」としたのは、『大清一統志』(「台湾府図」)には尖閣諸島が描かれておらず、台湾の北端には「雞籠城界」として、台湾府の国界を明記していたからである。
その台湾が清朝の領土となって福建省に隷属し、台湾府が設置されたのは康煕23年(1684年)4月である。蒋毓英の『台湾府志』(「封隅」)では、「北至雞籠城二千三百一十五里」(北、雞籠城に至ること二千三百十五里)として、雞籠城(基隆付近)を台湾府の北端としている。この『台湾府志』の存在を明らかにしたのは、井上清氏の論敵となった奥原敏雄氏である。だが井上清氏は、奥原敏雄氏の尖閣研究を無視する態度をとった。
奥原敏雄氏の主張どおり、台湾が編入されたのが清朝の時代で、その北端が雞籠城となると、明代の陳侃の『使琉球録』や郭汝霖の『重編使琉球録』を根拠に、尖閣諸島は明代から中国領だったとする井上清氏の論理が、成り立たなくなるからだ。
そこで次に問題となるのが、清朝が設置した台湾府の疆域である。それを視覚的に示しているのが、『大清一統志』所収の「台湾府図」なのである。奥原敏雄氏は、『大清一統志』の「台湾府図」に言及していないが、『大清一統志』(「台湾府図」)の「雞籠城界」は、その『台湾府志』の記述を基に作図されていた。それも『大清一統志』(「台湾府図」)の台湾の図形は、奥原敏雄氏が依拠した高拱乾の『台湾府志』や范咸の『重修台湾府志』の「台湾府総図」と比べても、台湾の姿は現状に近く、精確に描かれていた。
奥原敏雄氏は、『台湾府志』を根拠として、台湾府の北端は雞籠城としたが、その『台湾府志』の記述が『大清一統志』(「台湾府図」)に引用され、「雞籠城界」となった事実までは明らかにできなかった。そのため後述するように、「尖閣諸島は中国領」とする研究者からは、尖閣諸島は小さな島なので地図には載っていない、と反論されるのである。
だが『大清一統志』所収の「台湾府図」は、高拱乾の『台湾府志』や范咸等の『重修台湾府志』の「台湾府総図」と比べても、格段に精度が高かったのには理由があった。『大清一統志』の「台湾府図」は、康熙帝の命を受けたイエズス会の宣教師達が1708年から清朝全土で三角測量をはじめ、1717年に完成した『皇輿全覧図』をその基図としたからである。それも台湾の場合、清朝の統治が及んだ地域でのみ測量が実施された。そのため『皇輿全覧図』では、台湾の西側だけ【図3】が描かれていたのである。
【図3】『皇輿全覧図』(部分)
『大清一統志』の「台湾府図」は、その台湾の西側半分が描かれた『皇輿全覧図』を基図として、『台湾府志』に記載された「封域志」の地名を写し、台湾府の疆域を表示していたのである。これと同じ方式は、『大清一統志』の前に編修された『欽定古今図書集成』(1725年完成)の「台湾府疆域図」でも採られた。
その『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」【図4】を確認すると、台湾府の北端を「雞籠城界」とし、南端は「沙馬磯頭界」、東端は「咬狗渓大脚山界」と表記して、西端を「澎湖大洋界」としていた。これは台湾府の疆域がこの四至の内側に限られ、その外側の尖閣諸島は、台湾府に属していなかった、ということなのである。(その後、台湾府の疆域は台湾全島に拡大するが、北端は基隆島であった)
そこで2015年9月29日付け『産経新聞』で『皇輿全覧図』を報じてもらい、「中国政府が尖閣諸島の領有権を主張する際の歴史的根拠がないことを示す貴重な資料」とコメントしたのである。
【図4】『欽定古今図書集成』「台湾府疆域図」と部分(右)
林泉忠氏から反論
すると中央研究院近代史研究所副研究員(当時)の林泉忠氏から、反論がなされた。それは「古地図がどうして現代の領土主権を明らかにできるのか‐下條正男教授の『皇輿全覧図』に釣魚島がないという説を評して‐」と題する論評である。林泉忠氏によると、ご自身はその前年、『皇輿全覧図』の原図を米国の国会図書館で発見したそうで、そのためそれは下條の新発見などではない。また『皇輿全覧図』のような古地図を根拠に、尖閣諸島の領有問題を争うことはできない、というのが反論の主旨であった。
だが『皇輿全覧図』の存在は、早くから知られていた。それを林泉忠氏は、自分が『皇輿全覧図』の原図を発見したと力説しているが、原図の発見と尖閣問題は、全く関係がないことである。重要なのは、『皇輿全覧図』がどのような経緯で作図され、それが『大清一統志』と『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」が作成される際の基図となり、台湾府の北端が「雞籠城」と明示された事実である。新発見とするなら、その事実が新たに明らかにされたことである。
それを林泉忠氏は、『皇輿全覧図』を価値のない古地図とすることで、台湾府の北端が「雞籠城」であった事実までも否認しようとしたのである。だがそれは為にする議論であった。この『皇輿全覧図』は、イエズス会の宣教師達が(当時としては近代的な)三角測量によって作図し、その中の台湾は、清朝が統治する疆域のみが描かれていたからだ。『大清一統志』と『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」では、その『皇輿全覧図』を基図として、『台湾府志』に記された台湾府の「疆界」を書き込んでいたのである。それを林泉忠氏は、文献批判もせずに『皇輿全覧図』は古地図なので、尖閣問題の証拠にはならないと強弁したのである。
肝心なことは、『大清一統志』と『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」が、実際に台湾に赴任し、現地を統治した官吏達が編纂した『台湾府志』に基づいて、作図がなされていた事実である。蒋毓英の『台湾府志』(「封隅」)では、台湾府の疆域を「東至咬狗溪大脚山五十里」、「北至雞籠城二千三百一十五里」等とし、高拱乾等の『台湾府志』(「疆界」)では「東至保大里大脚山五十里為界」、「北至雞籠山二千三百一十五里為界」としている。
それを『大清一統志』と『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」では、「咬狗溪大脚山界」とし、「雞籠城界」と表示して、台湾府の疆域を明示していたのである。
それを林泉忠氏は、『皇輿全覧図』に尖閣諸島が描かれていないのは、古地図だからで、尖閣諸島の領有権問題と『皇輿全覧図』は関係がないとしたのである。だが重要なのは、台湾府の疆界を雞籠城とした事実である。その『皇輿全覧図』に尖閣諸島が描かれていないのは、『台湾府志』では台湾府の北端を雞籠城として、尖閣諸島は、初めから清朝の疆域に含まれていなかったからである。それは台湾の付属島嶼である澎湖諸島を見れば、明らかである。『皇輿全覧図』に描かれた澎湖諸島は、附属の小島までが詳細に描かれている。
それを林泉忠氏は、『皇輿全覧図』に尖閣諸島が描かれていない理由を、小さな島だからとしたのである。そこで林泉忠氏が考えたのが、彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼の三つの小島の存在である。林泉忠氏は、その三島が『皇輿全覧図』に描かれていないのは、尖閣諸島と同様、小さな島だからだと反論したのである。
だがそれは林泉忠氏の詭弁である。歴史的事実として彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼の三島が台湾に属すのは、台湾が日本領に編入された1895年以後だからである。この事実は、彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼の三島が、台湾の属島ではなかったことの証左なのである。
事実、奥原敏雄氏は基隆市文献委員会編『基隆市志』(1954年刊)を根拠に、彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼の台湾編入を1905年(光緒31年)としている。彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼の三島が、清朝時代の『皇輿全覧図』に描かれていないのは、小さな島だからでなく、台湾の附属島嶼ではなかったからなのである。
では彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼の三島が台湾に附属したのは、いつのことであろうか。それは明治33年(1900年)発行の『台湾総督府第一統計書』と明治34年(1901年)発行の『台湾総督府第三統計書』で、確認ができる。『台湾総督府第一統計書』では台湾の極北を北緯25度19分の富基角(富基岬)とし、島嶼では台北県の基隆島(北緯25度11分)を挙げている。彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼の三島は、この時点では記載されていない。
それが明治34年(1901年)発行の『台湾総督府第三統計書』になると、棉花嶼、花瓶嶼とともにアヂンコート島(彭佳島)が台北県所管の島嶼となっている。林泉忠氏が台湾の属島とした彭佳島、棉花嶼、花瓶嶼の三島が台湾に附属したのは、日本時代である。それを林泉忠氏は、『皇輿全覧図』に尖閣諸島が描かれていないのは小島だからとしたのである。林泉忠氏はその彭佳島、棉花島、花瓶島を清朝時代から台湾の附属島嶼として、『皇輿全覧図』の存在を封印しようとしたが、それは林泉忠氏による欺瞞の論理である。
林泉忠氏は、何ら歴史的根拠がないまま、彭佳島、棉花島、花瓶島を清朝時代から台湾の附属島嶼とする前提を捏造して、「小さな島」説を開陳したのである。そのため林泉忠氏自身も、気がつかないまま、自家撞着に陥っていたのである。古地図の『皇輿全覧図』には、証拠能力がないとしながら、ご自身はより古い明代の『萬里海防図』や『籌海図編』所収の古地図を根拠に、「尖閣諸島は中国領」だとしていたからである。
だが周知の事実として、正史の『明史』(「地理志」)では、台湾を「外国伝」に入れ、明代に編纂された官撰の『大明一統志』(「外夷」)でも、澎湖島(澎湖諸島)を琉球国の付属島嶼とした。台湾と澎湖島は、明の領土ではなかったのである。
その台湾が清朝の領土となって、福建省に附属し、台湾府が設置されるのは康煕23年(1684年)である。それを林泉忠氏は、明代の『萬里海防図』や『籌海図編』所収の古地図を根拠に、台湾は明代から中国の領土だったとしたのである。
尖閣諸島を台湾の一部としたい論者達は、林泉忠氏や井上清氏のように、文献批判をすることなく、文献を恣意的に解釈する傾向がある。拙稿で『皇輿全覧図』に注目したのは、康煕23年に台湾が清朝に編入され、その疆域を図示した『大清一統志』と『欽定古今図書集成』の「台湾府総図」が、『皇輿全覧図』を基図として作図されていた事実である。
それを林泉忠氏が、『皇輿全覧図』のような古地図は現代の領土問題では使えないとしたのは、尖閣諸島が描かれていない『皇輿全覧図』は、尖閣諸島を中国領とする林泉忠氏には、不都合だったのであろう。だが拙稿で『皇輿全覧図』に触れたのは、官撰地理志の『大清一統志』と『欽定古今図書集成』の「台湾府総図」では台湾の疆界を雞籠城とし、それが『皇輿全覧図』を基図としていた事実である。『皇輿全覧図』を古地図として否定し、彭佳島、棉花島、花瓶島が小さな島であったと詭弁を弄しても、台湾の疆界が雞籠城であった事実には変わりがないのである。
ではその時、雞籠城から170㌔ほど離れた尖閣諸島は、どこに属していたのであろうか。
尖閣諸島は無主の地であった。
従来の尖閣研究では、明清時代の冊封使の記録に基づいて、尖閣諸島の帰属問題を論ずるのが常であった。それが陳侃『使琉球録』(1534年)、郭汝霖『重編使琉球録』(1562年)、汪楫『使琉球雑録』(1683年)、周煌『琉球国志略』(1756年)、李鼎元『使琉球録』(1800年)、齋鯤『続琉球国志略』(1808年)等の記録である。
だが『欽定古今図書集成』と『大清一統志』の「台湾府総図」が『皇輿全覧図』を基図として作図され、そこに『台湾府志』の記述に従って「雞籠城界」と記入された経緯については、注目されることはなかった。
それは従前の尖閣研究が、国際法を中心としたため、歴史研究を疎かにしていたからである。奥原敏雄氏は、確かに『台湾府志』には言及したが、その記述が『大清一統志』や『欽定古今図書集成』(「台湾府疆域考」・「台湾府建置沿革考」)に引用され、「台湾府総図」で台湾府の北端を「雞籠城界」とする典拠となった事実は、明らかにしていない。
そのため井上清氏のように、「尖閣諸島は中国領である」とする前提で文献を解釈する「歴史家」の限界を指摘することができなかった。それは「歴史家」による「歴史学的議論」を自負した井上清氏もまた、広く文献を読んでいなかったからである。
井上清氏は、冊封使として琉球に赴いた斉鯤の『続琉球国志略』(1808年)を論拠の一つとして、尖閣諸島を中国の領土とした。だがその斉鯤は「雞籠山、中華の界」として、台湾の雞籠山を「中華の界」(国境)としていたのである。
冊封使の斉鯤は、嘉慶十三年(1808年)閏5月上旬に福州を出帆して、五虎門、雞籠山、釣魚台、赤尾嶼、黒溝洋、姑米山、馬歯山を経て、閏5月17日の夜、那覇港に入港した。その斉鯤の文集である『東瀛百詠』(「航海八咏」)では、台湾付近を通過する際に「雞籠山(山、台湾府の後に在り)」と題した詩を詠み、台湾府の雞籠山を「猶是中華界」(猶これ中華の界のごとし)としたのである。それは「航海八咏」に続く「渡海吟用西墉題乗風破浪圖韻」でも同様で、斉鯤は「雞籠山、中華の界」としている。冊封使の斉鯤は、台湾府の雞籠山を、清朝の疆界としていたのである。これは官撰地理志の『大清一統志』や『欽定古今図書集成』では、「雞籠城」、「雞籠山」を台湾府の北端とした事実があるからだ。
その後、斉鯤は雞籠山(台湾)を過ぎ、釣魚台、赤尾嶼、黒溝洋、姑米山、馬歯山を経て、那覇港に入港するが、斉鯤はその航程で、「姑米山」(久米島)とする詩を詠み、その表題の分註では「此山入琉球界」(この山、琉球の界に入る)としている。これは明の陳侃の『使琉球録』で、久米島を「琉球に属す」とし、汪楫の『使琉球雑録』では、久米島と赤尾嶼の間を「中外の界」としたことと軌を一にする。
だが斉鯤の『東瀛百詠』が、陳侃の『使琉球録』や汪楫の『使琉球雑録』と違うのは、斉鯤は、台湾府の雞籠山を清朝の国界として、久米島を琉球の国境とした事実である。斉鯤が「雞籠山、中華の界」とした事実は、清朝の雞籠山と琉球の姑米山(久米島)の間にある島嶼は、清朝にも琉球にも属していなかった、ということなのである。
それを井上清氏は、周煌の『琉球国志略』(「航路図」)に依拠して、陳侃の『使琉球録』で、久米島を「琉球に属す」とすると、文献批判もせずに「釣魚諸島はもともと無主地でなく、明代から中国領であった」と独断したのである。
しかし斉鯤は、他の冊封使達と同じ航路を辿って、雞籠山を「中華の界」とし、「姑米山」(久米島)を琉球の領土としていた。斉鯤が、雞籠山を「中華の界」としたのは、蒋毓英の『台湾府志』や高拱乾の『台湾府志』、官撰の『大清一統志』や『欽定古今図書集成』以来、台湾府の境界は「雞籠山」と「雞籠城」と決まっていたからである。斉鯤はその地理的知識に従って、「雞籠山、中華の界」とし、久米島を「此山入琉球界」としたのである。
この事実は、「雞籠山」や「雞籠城」と「姑米山」(久米島)の間にある尖閣諸島は、清朝の領土でも琉球の領土でもなかったということなのである。これを今日的に表現すれば、尖閣諸島は、「無主の地」であった、ということなのである。
だが井上清氏等は、『欽定古今図書集成』や『大清一統志』、『台湾府志』等の基本的な文献も見ずに、「釣魚諸島はもともと無主地でなく、明代から中国領であった」と虚偽の歴史を捏造し、日本帝国主義が中国の領土を「窃取」したとして、中国側の尖閣侵奪に加担してきたのである。
井上清氏の『尖閣列島‐釣魚諸島の史的究明』は、確かに「釣魚諸島問題の歴史学的議論をさそう一助」にはなったが、その史料操作と文献批判は杜撰だった。それは井上清氏の尖閣研究が、「尖閣諸島は中国領」を誘導するためのプロパガンダだったからである。
歴史的事実として、『台湾府志』から始まった「雞籠城」(雞籠山)を台湾府の北端とする地理認識は、中華民国時代に編纂された『皇朝続文献通考』(1912年)や『清史稿』(1927年)でも踏襲されている。その「雞籠城」から170㌔も離れた尖閣諸島は、最初から台湾の一部ではなかったのである。
おわりに
以上の事実から明らかなことは、1895年1月14日、閣議決定によって日本政府が尖閣諸島を日本領に編入した際の尖閣諸島は、「無主の地」であったということである。
井上清氏は、その「無主の地」であった尖閣諸島を日本領に編入すると、それを日本帝国主義による「窃取」と断じたが、それは事実無根の「歴史学的議論」であった。
今日、中国政府は、その尖閣諸島を「核心的利益」として、明代から中国の領土であったと虚偽の歴史を捏造し、尖閣諸島周辺での連続航行によって挑発行為を続けている。だがそれこそは、井上清氏がいう、帝国主義的発想による領土的野心である。
i 井上清(1913年-2001年)
日本近現代史研究者、京都大名誉教授。東京帝国大学文学部国史学科を卒業。著書『「尖閣」列島 : 釣魚諸島の史的解明』において尖閣諸島は中国領と主張し、それが中国の文献に頻繁に引用されている。
本論稿は執筆者の見解を代表したものです。