コラム

ロシアに垣間見える「KGBの影」

2007-12-26
猪股浩司(主任研究員)
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そう最近のことではないが、リトヴィネンコ暗殺事件や英国人外交官追放事件、また、北方領土近海での日本漁船に対する銃撃事件など、ソ連時代のKGB(国家保安委員会)の流れを汲むFSB(連邦保安庁)絡みの事件が、日本のマスコミを賑わせた。元FSB少佐だったリトヴィネンコ氏の暗殺にはFSBの関与が疑われ、英国人外交官追放事件はFSBの「防諜活動の成果」であり、日本漁船拿への銃撃はFSBの傘下にあるFPS(国境警備庁)が行ったものだった。ロシアでは、FSBなどによる治安維持活動が恒常的に行われているほか、プーチン大統領、イヴァノフ第一副首相、セーチン大統領府副長官、イヴァノフ大統領補佐官など、KGB出身の政権要人が少なくない。「ロシアにおけるKGBの復活」が囁かれる所以であろう。

それにしても、ロシアの歴史は、ロシアの治安・情報機関の歴史を抜きにしては語れない。ロシアの治安・情報機関は、帝政ロシア時代に帝政護持のための機関として生まれ、ソ連時代に共産党独裁体制護持のための機関として再編・肥大化し、共産党体制崩壊に伴って大改革され、現在、プーチン政権になって、再びその存在意義を大きく示し始めている。ロシアの治安・情報機関は、いずれの時代も、権力と一体化して人民に睨みを効かせてきており、これら機関の歴史は、ロシアそのものの歴史と密接に結びついているといえよう。以下、ロシアの治安・情報機関の歴史的変遷を全て辿ることはできないので、とりあえずロシアの治安・情報機関の代名詞となっているKGBについて、その歴史をごく簡単にみてみたい(注1)。

(注1)KGBは解体されたが、KGBと共にその名が上がるGRU(軍情報総局)は、1926年から現在に至るまで、存在し続けている。第二次世界大戦時に日本で新聞記者としての身分で諜報活動に従事した大物ソ連スパイのゾルゲは、GRU所属だった。

ロシアの治安・情報機関の源流は、1565年にイワン4世が反皇帝勢力への対策のために組織した恩賜皇室領(オプリーチニナ)部隊にある。この機関は7年で廃止されたが、帝政ロシアでは、以来300年以上にわたり、オプリーチニナ部隊に代わる治安・情報機関が逐次結成・再編され、それぞれが帝政護持のために活動していた。しかし、内外情勢が激動する中、1917年にロシア革命によって帝政ロシアは崩壊、帝政ロシアに奉仕してきた治安・情報機関は、その存在を止めた。しかし、新たに権力を握ったソヴィエト政権の下で、治安・情報機関は、ソヴィエト体制を護持するための機関として結成されることとなる。即ち、ソヴィエト政権は1918年、VChK(反革命及びサボタージュ取締り全ロシア非常委員会)を設置し、これを反革命勢力の掃討に当たらせたのである。ソ連では、その後、第二次世界大戦前後にかけて治安・情報機関の再編・強化が行われたが、その中では、スターリンによる大量粛清を例に挙げるまでもなく、常に人民に対する弾圧が行われていた。レーニンからスターリンにかけての時代、ソ連の「プロレタリア独裁」は、GPU(国家政治保安部)、NKGB(国家保安人民委員部)、MGB(国家保安省)、MVD(内務省)といった、その時々の治安・情報機関の活動によって支えられていたのである。

独裁者・スターリンは、1953年に死去した。この後、世界的に「雪解け」ムードが高まる中で、ソ連共産党は、悪評高い治安・情報機関に対する党の管理を強化すべく、新たな保安機関の編成に着手し、1954年3月13日、ソ連閣僚会議の付属機関として、KGBを創設した。当時、KGBは、「社会主義的適法性の強化」を活動の原則とし、その所掌分野は対外諜報、西側先進技術取得、防諜、及び反ソ連分子撲滅といった分野に限られていたほか、「暴走」が問題となっていた内務省への反省もあり、その活動は合議制によるといった策も講じられていた。しかし、時が流れ、「雪解け」を進めたフルシチョフ共産党書記長が1964年に失脚、その後任にブレジネフが就任し、世界的にも東西対立が高まるといった情勢の変化を受けて、「社会主義的適法性の強化」のための機関であるKGBは、その重要性を増してきた。

1967年、共産党書記のアンドロポフがKGB議長に就任した。1973年にアンドロポフが共産党政治局員に昇格したことで、KGBは、国政そのものに深く関わるようになった(アンドロポフは、1982年には共産党書記長に上り詰める)。厳しい冷戦が続く中、ソ連は、共産党一党支配体制を守り米国と対峙していく必要性から、より強力な治安・情報機関を必要とするようになった。KGBには、経済防諜部門などが新設され、優秀な人材が集められ、その組織はますます強大になっていった。今のロシア大統領であるプーチンが「KGBにあこがれて」KGBに就職したのは、この頃の1975年である(注2)。1980年代にかけて、KGBは、対外諜報や国内防諜、国境防衛、盗聴、暗号解読、要人警護などあらゆる分野を所掌するとともに、内外に膨大な情報網を有する一大機関となった。それこそ、「国家の中の国家」というべきものであった。

(注2)プーチンは、1985年から1990年まで、東ドイツに派遣されていた(この間の1989年に「ベルリンの壁」が崩壊)。なお、プーチンは、KGB解体後、母校のサンクトペテルブルグ大学顧問を経てサンクトペテルブルグ市役所入りしている。彼が「クレムリンの住人」になるのは、その後のことである。

しかし、KGBがまさに「国家」即ちソ連共産党と一体であったことは、KGBの強さと同時に弱さでもあった。長きに渡る共産党一党独裁体制が生んだ矛盾が露呈してくる中、1985年にゴルバチョフが共産党書記長に就任。ゴルバチョフは、「このままではソ連は三等国に転落する」との危機感の下、言論の公開などさまざまな改革を推進したが、そうした改革がソ連という国家体制そのものを揺るがすに至る状況に、クリュチコフKGB議長を含む共産党保守派は危機感を募らせる。かくて、共産党保守派は、1991年8月に保養地で休養中のゴルバチョフを軟禁して非常事態を宣言するが、このクーデターは結局失敗に終わった(注3)。直後、ゴルバチョフは共産党書記長を辞任し共産党の解散を宣言、同年10月には、当時の暫定的最高機関である国家評議会がKGBの解体を宣言するに至る。単純化していえば、KGBは、ソ連共産党と一体化して共産党一党独裁体制を守ってきたが故に、共産党と運命を共にすることとなったのである。強大な機関も、それが共産党という支柱によりかかっていたものに過ぎなかった以上、その支柱が倒れた時、もはや自力で立つことはできなかった。

(注3)このクーデターについては、ゴルバチョフが実際には軟禁状態になかったとの説があるなど、なお謎が多い。因みに、このクーデターの時、保守派が出動させた戦車の上から保守派を糾弾して人心を掌握したエリツィンは、この後ゴルバチョフを追い落とし、ソ連そのものの解体に道を開くこととなる。

既に、ロシアにKGBは存在しない。現在のロシアをとりまく内外情勢に照らせば、ロシアにKGBのような「国家の中の国家」が復活することも、容易に考え難い。今、プーチン政権にも、プーチン政権を守る治安・情報機関にも、非常に複雑な内外の要請が働いている。昔とは全く状況が違うのである。しかし、それでもなお、「KGBの影」は、ロシアのあちこちに見いだすことができるだろう。KGBは、その解体後、複雑な再編の過程を経て、現在ロシアには、FSB(連邦保安庁)、SVR(対外情報庁)、MVD(内務省)、FSO(連邦警護庁)が、KGBから派生したものとして存在している。また、KGBについては、その解体後に民間警備会社など実業界に転身した職員も少なくなく、そうした結果、いわゆる「旧KGB人脈」は、政界や財界を含めて、ロシアの社会に広く根を下していると推察される。加えて、プーチン大統領自身、恐らく「敵と味方を明確に区別する」、「仲間同士は絶対に裏切ってはならない」といった「KGB的価値観」の持ち主である。プーチン大統領が、財閥と癒着し汚職の噂が絶えなかったエリツィン大統領(プーチンはエリツィンから「後継大統領」に指名された)を最後まで庇護したこと、サンクトペテルブルグ時代の「旧知の人間」ばかりを側近として重用していることは、もはやいうまでもない。「ロシアにおけるKGBの復活」は杞憂にしても、ロシアから「KGBの影」を払拭するのは非常に難しいと思われる。そうした「影」は、ある意味でロシアの伝統の一つなのかもしれない。

それにしても、KGBは悪名高いけれども、国家が治安・情報機関を持つこと自体は、極めて当然である。ロシアに限らず、およそどこの国もこうした機関を持っているし、これら機関が謀略をはたらいていることも容易に推認できる。確かに、これら機関は、ひとたび暴走してしまったら、極めて危険なものである。しかし他方で、これら機関を使って社会秩序を維持し内外の情報を的確に入手・分析することは、国家の存続と発展にとっての要の一つであろう。それを考えると、日本がいかにもさびしく思えてくる。日本における対外情報の収集・分析は、はたしてどうなっているのだろうか。