コラム

【五百旗頭真先生追悼文(抄訳)】

「五百旗頭先生、いつも私たち(生徒、友人、家族)のそばにいてくださり、そして日本を世界に、世界を日本に紹介していただき、ありがとうございました。」

2024-07-16
ロバート・D・エルドリッヂ(Robert D. Eldridge)
Senior Fellow (non-resident), The Japan Institute of International Affairs
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2024年3月6日、五百旗頭真神戸大学名誉教授・元防衛大学校校長が逝去されました。五百旗頭先生は日本政治史、日本政治外交史の分野で数多くの功績を残されており、また、阪神淡路大震災以降は日本の震災復興のため果敢に陣頭に立っておられました。今回、五百旗頭先生の教え子の1人でいらっしゃるロバート・D・エルドリッヂ先生(弊所・シニアフェロー)より五百旗頭先生を偲ぶ一文をお送りいただきましたので、下記に掲載いたします。

後に私の指導教員となる五百旗頭先生に初めてお会いしたのは、今から30年前、1994年2月のことでした。その春、神戸大学大学院修士課程への進学を希望していた私は、先生に面会を申し込んでいました。でも私は先生のオフィスのドアの前でしばらく待つことになります。先生は約束の時間に遅れたのです。先生を知る人なら共感し、笑っていることと思います。先生は何かと遅れがちだったためです。

今年3月に親族と限られた縁者だけで営まれた五百旗頭先生の葬儀では、先生が所属していた教会(フランシスコ・ザビエル五百旗頭真先生はカトリック信者でした)の司祭が、遅刻について、より正確には、時間を気にせず延々としゃべり続けられる先生の才能について、言及したほどです。

私は五百旗頭先生の遅刻(通常15分ほど)を「五百旗方式」、もしくは「神戸方式」と呼んでいました。これは、神戸市が非核証明を提出しない限り軍艦の寄港を認めないことにちなんだもので、1975年の日米同盟採択以来の争点でもあります。

1994年2月のその日、五百旗頭先生が遅れたのは、当時の細川護熙首相との面談で東京を訪れていたその足で、新神戸駅から六甲台キャンパスに到着したためでした。挨拶や自己紹介が済むと、先生はこう切り出しました。「さて、ロバートさん、もし今あなたが首相に会ったとしたら、何と言いますか?」

私がどのように答えたかは覚えていませんが、満足のいく返答だったようで、「本気で入試を受けたいのなら、この本、あの本、これとあれを読みなさい」と言い、日本語の文書をたくさん渡してくれました。私は、わずかな時間でたくさんの本を読まなければならないことに気づきました。

この時点で私は日本に来て3年半あまり、当時大学院に入学するための条件であった日本語能力試験の1級に合格したばかりでした。大学では日本についてあまり勉強したことがなかったので、日本の政治史は、日本滞在中に観察したり、自分で読んだりしたこと以外には、私にとって未知の分野でした。

私はどうにか筆記試験と口頭試問に合格し、4月に神戸大学大学院法学研究科修士課程1年生(M1)として入学しました。その「どうにか」とは、今思えば、五百旗頭先生の優しさと、人の能力を引き出す指導力によるものでした。それは私だけではなく、直接の指導学生から先生の教室に出向いた人たち、さらには先生が指導的立場にあった多くの組織のスタッフにも向けられました。

私が元クラスメートの1人から五百旗頭先生の訃報を聞いた直後、そのような関係者の1人が、熊本県から私に連絡をくれました。その関係者が秘書として先生の下で働いてから数年が経っていたにもかかわらず、訃報を人々に知らせる責任を感じたということは、五百旗頭先生が長年にわたって得てきた、愛情と忠誠心の証にほかなりません。

五百旗頭先生は、ご家族、友人、教え子、そして同僚など、人を愛していました。さらには著作で取り上げた歴史上の人物の多くも愛していた。もとい、先生はほぼすべての人の、良い面、尊敬できる点を見出していました。人間なら誰しも、良い面もそうでない面も持ち合わせている。先生は、人の良いところを探すことを選んだのです。

晩年の数十年間は、日本の政治指導者たちと特に親しくなり、小渕恵三氏をはじめとする多くの人々に外交問題や国内問題について助言を与えました。また、日本政府を代表して、自国の見解や歴史を世界に説明し、他国の指導者や国民が何を考えているのかを知るために、多くの任務を遂行しました。

五百旗頭先生のメッセージは明確でした。日本は世界にとって善の力であり、他の国々の模範となる国である。日本は完璧ではない。しかし、学び、改善しようと努めた。同様に、アメリカは日本にとって貴重な同盟国、そして真の友人であり、日本の近代化と戦後の発展における重要なパートナーだった。さらに五百旗頭先生は、アメリカにとって日本がいかに重要であるかということも説明してこられた。両国ともに、お互いを必要としてきたのです。

五百旗頭先生は、政府高官との会談、世界各地への出張、学会や学術団体の運営など多忙なスケジュールにもかかわらず、学業の面でも個人的な面でも、学生のために時間を割いてくださいました。大学院時代のほとんどを自費で学んでいた私が経済的にやっていけるかどうか、特別な関心を寄せてくださいました。神戸大学大学院修士課程に入学して間もない頃、先生は私にいくつか仕事を与えてくれました。

その1つに、先生の主な研究分野の1つでもある、連合国軍の日本占領に関わった人物へのインタビュー記録の文字起こしがありました。中でも印象に残っているのが、民生局次長のチャールズ・L・ケーディス氏へのインタビューと、戦後憲法の制定に関する議論です。私は今でも、憲法九条制定の経過、そして戦後の日本の安全保障政策に関する授業では、このインタビューに言及します。

そのほかにも、先生の学部の授業のティーチング・アシスタントを務めたり(しばしば遅刻するので、私は時間通りに授業を始めるだけでした)、先生の論文や章、後に書籍を日本語から英語に翻訳したりしました。重要なことを述べておられた先生の仕事を英語圏に紹介できたことを、誇りに思っています。

もう1つ五百旗頭先生に関する冗談で、ご自身ものっていたものに、先生の筆跡があります。私は芸術的で美しいと思ったのですが、ほとんどの人は汚くて読みにくいと思ったようです。私はどういうわけかほぼ支障なく読むことができ、そのスキルを特に誇らしく思っています。どうしても読めないときは、服部龍二さん、アンドリュー・ビートンさん、高原秀介さん、村井良太さん、楠綾子さん、村上友章さんといった同級生が近くにいれば、さながらエジプトの象形文字を読むかのように解読を試みました。周りに誰もいなければ、当時付き合っていた彼女(後の妻)や、先生より少し年長で、すでに先生の大ファンだった彼女の両親に見せたりしました。それでも読めなければ、直接本人に聞きました。先生もだいたい読めたものの、本人でさえ読めないときもありました。私の日本語能力に問題があるわけではないと知って、悪い気はしませんでした。

五百旗頭先生は指導、そして学生との関係に全力を尽くしていました。先生は情熱を持ってセミを運営し、学生たちと遠出することも多く、特に近くの関西の山中にある保養所では、ディベートをしたり、外でスポーツをしたり、夕食やその後に歓談を楽しみました。また、海外を含む様々な場所へ旅行しました。私の限られた予算では日本を離れることはできませんでしたが、松山や城崎温泉、五百旗頭先生と末のお嬢さんとの六甲山ハイキング、そして有馬温泉など、国内旅行には何度か参加しました。

1996年初頭、松山を訪れた五百旗頭先生(左)、筆者(右)と同級生たち。
(写真提供:本文筆者)

修士2年の学年末には、ほぼ丸一日、五百旗頭先生を独り占めする機会に恵まれました。先生は当時豊中市に住んでいた私の部屋(共同設備の廃れた元ビジネスホテル)を訪れ、私の修士論文に目を通し、日本語版をチェックしてくれました。ベッドの上で壁際に陣取り、「ここで言いたかったことは?」などを問いかけました。食べ物まで持ってきてくれたのですが、作業に没頭するあまり、食べるのを忘れていたほどです。私が卒業し、博士課程に進学できたのも、あの日あってのことだと思っています。

1996年3月、神戸大学大学院修士課程修了式にて。筆者(左)、五百旗頭先生、同級生たち。
(写真提供:本文筆者)

少なくともその時点では、博士課程に進学するつもりはありませんでしたが、先生に勧められ、1996年初めに応募することにしました。その直前の1995年9月、沖縄で3人のアメリカ兵による12歳の少女の拉致・強姦事件が起こり、日米関係は大きく揺れました。私は自分の修士論文で、当時は当然だった沖縄についてまったく触れていないことに気づきました。博士論文では、沖縄の視点から戦後の日米関係を検証することにしました。

博士課程1年目の年度末、1997年初頭、私は琉球大学の我部政明教授のもとで1カ月沖縄に滞在し、文献調査に没頭しました。ある晩、五百旗頭先生に電話で相談したところ、とても賢明な助言をいただきました。「ロバート、君は沖縄の専門家になりたいのか、それとも日米関係の専門家になりたいのか」。私は、「日米関係の専門家です」と答えました。すると先生は、そこに焦点を合わせることで、資料を集め分析する際に、どの資料を探すべきかを導いてくれる、と言いました。つまり、フィールドワークで深堀していた私に、全体像を見なさい、と伝えてくれたのです。いわゆる木を見て森を見ず、という状態でした。博士候補者のなかには、論文を完成させずじまいの人もいる中、集中して期限内に論文を書き上げることを望んでいたのでしょう。

最初の沖縄訪問は1996年の夏で、これが2回目の沖縄訪問でした。それ以来、私は約150回沖縄を訪れており、大阪大学を離れた後アメリカ政府のために働いていた時期を中心に、合計8年間沖縄に住みました。

初めて沖縄に行ったのは1996年の夏で、台風でフェリーが欠航しそうになったのをかわし、マウンテンバイクを持参してフェリーで行きました。同じサイクリング愛好家である神戸大学のロニー・アレキサンダー教授の勧めで、那覇の沖縄大学で開催された平和研究会議に出席しました。

当時、大田昌秀沖縄県知事は、民有地を軍用地として使用するための代理署名を拒否した問題で、橋本龍太郎首相率いる政府と最高裁で争っており、沖縄に滞在するには興味深い時期でした。また、史上初めて、基地に関する県民投票が行われる直前でもありました。(その後、日本では基地関連の住民投票が4回行われ、私はそのすべてを取材しました)。

2度目の滞在では、五百旗頭先生にもご相談した歴史調査をしながら、県民投票に関する情報収集や取材も始めました。そして翌年(1997年)、Asian Survey誌に初めての学術論文を発表することになりました。この論文は準備にとても時間がかかりましたが、評価は非常に高く、現在でも沖縄に関する著作で参照されています。(ある査読者は「沖縄について書かれた論文の中で最高のものだった」と述べています)。

幸いなことに、博士論文も予定通り書き上げることができました。1996年の秋に婚約者となった彼女と私は、沖縄でのフィールドワークから戻った数週間後、私の地元で結婚式を挙げました。五百旗頭先生は1997年3月の結婚式には出席できなかったのですが、その後の披露宴で、ニュージャージーまで長旅をしてくれた同級生の蓑原俊洋さんと服部聡さんの2人に、手紙を託してくださいました。忘れられないお心遣いです。

私は幸運なことに修士課程と博士課程を通して非常に熱心なクラスメートに囲まれました。その全員が学術界や出版界で活躍するようになったことを、五百旗頭先生も喜んでくださっていました。

五百旗頭先生のご指導により、お互いの功績を称え合う機会は何度も訪れた。五百旗頭先生と筆者、そして同級生たち。
(写真提供:本文筆者)

博士号を取得して神戸大学を卒業した2日後、1999年4月2日に娘が生まれました。お2人がカトリック教徒であることから、五百旗頭先生と、美しくお優しい奥様の佳子さんに、娘の名付け親になってくれるようお願いしました。先生たちはご快諾くださり、5月に私たちの住む川西市の隣にある池田カトリック教会で行われた洗礼式に、来日した私の母とともに出席してくださいました。(五百旗頭夫妻に初めて会った母は、当然のことながらすぐにお人柄に魅了されました)。

1995年5月、大阪府池田市、池田カトリック教会で洗礼を受けた筆者の娘と共に、五百旗頭先生、佳子夫人、デニス神父、筆者娘。五百旗頭ご夫妻は娘の名付け親だった。
(写真提供:本文筆者)

1995年5月、池田カトリック教会にて、筆者娘の洗礼式に出席してくださった五百旗頭先生と佳子夫人、筆者と妻。
(写真提供:本文筆者)

引き続き私の経済状況を心配してくださっていた五百旗頭先生の計らいで、私は大阪のサントリー文化財団の特別研究員、鳥井フェローとして働くことになりました。追加の責任をほとんど負うことなく研究を進めることができただけでなく、財団が主催する興味深い研究会などにも数多く参加することができ、素晴らしい経験となりました。

私は学位論文の出版準備に加え(2001年にRoutledge社からThe Origins of the Bilateral Okinawa Problem: Okinawa in Postwar U.S.-Japan Relations, 1945-1952として英語版が出版され、その後2003年に日本語版が出版されました)、私が「復帰への道」と呼んでいる、その後の期間の研究に取りかかりました。私はすぐに、沖縄返還に先立ち返還の前例となった2つの日米間の出来事に焦点を当て始めました。ひとつは奄美群島の返還、もうひとつは小笠原と硫黄島の返還です。これらの研究は、それぞれ2003年の奄美群島返還50周年と2008年の小笠原諸島返還を機に出版されました。

サントリーフェローシップ終了後、私は米日財団の支援により渡邉昭夫先生のもと、東京の平和安全保障研究所で1年間のフェローシップを受け、沖縄に対する政策提言に取り組みました。発表された研究は広く普及し、定期的に参照されました。興味深いことに、2009年に米国海兵隊太平洋基地政務外交部(G-7)次長として沖縄で働き始めたとき、それらを完全に実施する立場にあった私は自らの提言を活用することができたのです。

この提言は当時の米海兵隊指導部の目にも留まり、私はその後、2004年から2005年までの1年間、ハワイのキャンプ・スミスにある太平洋海兵隊司令部で、ウォレス・C・グレグソン中将(後にバラク・オバマ大統領1期目の下でアジア太平洋担当国防次官補に就任)の下でサバティカル(研究休暇)を過ごすことになりました。これが米海兵隊との親密な関係の始まりで、私は最終的に大阪大学を去り、正式にアメリカ政府に入りました。

ここまで読んでくださった方なら驚かないと思いますが、私を大阪大学に紹介してくれたのも五百旗頭先生でした。その電話がかかってきたのは、お正月(2000年12月末日か2001年1月初日)の頃でした。私はアメリカに戻る予定で、母校のバージニア州にあるリンチバーグ・カレッジ(現リンチバーグ大学)で職を得ることになったのです。五百旗頭先生にはまだ決断をお伝えしていなかったのですが、大阪大学が私に興味を持っているとお電話をいただきました。私は自分の計画を話したのですが、五百旗頭先生は、当時採用を担当していた星野俊也教授に、少なくとも話をするよう勧めてくれました。そして、2、3カ月悩んだ末、大阪大学のポジションを受けることにしました。

大阪大学でのポジションを引き受けることを決めた理由は、私は日本の専門家なので、日本に拠点を置いて取材ができ、遅れたり又聞きだったりではなく、リアルタイムで情報を入手できることが望ましいと考えたからです。さらに、私は沖縄問題を専門にしていたので、大阪にいれば沖縄や東京に簡単に調査に行くことができますが、アメリカの東海岸に戻れば、それも難しくなります。

これは、五百旗頭先生が私のキャリアのごく初期にくださった、もうひとつの助言と関連しています。五百旗頭先生は、東京に移り住むよりも関西に住んで仕事をしたほうがいいとおっしゃったのです。確かに東京の方がチャンスはずっと多いのですが、東京にいると会議に出席したり、委員会や審議会に出席したり、メディアに出たりと忙しくなり、本格的な研究ができなくなる可能性が高いと忠告されたのです。関西にいれば、移動や経費の関係でそのような仕事から遠ざかることができると説明してくれました。「緑が多く、空気がきれいで、家族や友人が近くにいて、静かに研究ができる関西にいなさい。」そして、「東京やほかの場所で開催される会議やイベントのうち、行きたいものだけを選びなさい。」これは、ワーク・ライフ・バランスに関する究極の言葉でした。たとえある種の機会を妨げることがあったとしても、私はキャリアを通してその言葉に従おうとしてきました。(私は2020年に出版した高等教育に関する日本語の本の中で、日本が国際的な競争力を持つためには、東京を拠点とする学者とそれ以外の学者との間の学術資源や機会の格差を劇的に改善する必要があると警告しています)。

日本に留まり、大阪大学で働くことは、個人的にも、おそらく仕事上も正しい選択であったことは、その後証明されました。私たちは妻が育った地域に住んでおり、我が家は妻の実家から徒歩30秒です。毎日顔を合わせることができますし、義家族はいつでも孫たちに会うことができます。

そう、「孫たち」と複数形です。2人目となる息子は、私が大阪大学の教員になった4カ月後に生まれました。私は彼の誕生に立ち会うために、マウンテンバイクを文字通り飛ばしました。いつもは45分の道のりを35分で帰ったと思います。

五百旗頭先生との写真で一番好きなのは、名古屋大学出版会から出版された沖縄に関する私の書籍が賞を受賞し、2003年の秋に東京で贈呈式が行われた際、先生が息子と遊んでくださったときのものです。当時2歳だった息子は、スーツ姿で床に座って遊んでいました。同じくスーツ姿の五百旗頭先生も、床で息子と遊んでくれたのです。五百旗頭先生は子どもが大好きで、一緒に遊ぶのが大好きでした。五百旗頭先生は、仕事と同じくらい熱心に遊びました。

2003年11月、第25回サントリー学芸賞贈呈式での五百旗頭先生と筆者の息子
(写真提供:本文筆者)

その後私は大阪大学を離れ、沖縄の海兵隊で幹部職員として働くことになったのですが、五百旗頭先生は、この政治色の強い、報いられない仕事が、私と家族、さらには私の研究能力に影響を与える可能性を心配されたことでしょう。

確かに肉体的にも精神的にも大変な仕事でしたが、国立大学ゆえに、多くの事務作業、教育や研究以外の責任に追われていた大阪大学を離れたことで、私の研究生産性が3倍になったのは興味深いことです。なによりも、「沖縄問題」を取り巻く力学に対する理解を深め、成長させるためには、政策分野で働き、しばらくの間沖縄にいることが必要なことだと感じました。多くの学びもあり、学問の世界を一時的に離れ、米軍のために沖縄で働くという選択に後悔はありません。五百旗頭先生はこの成長を遠くから見守ってくださいましたが、それでも親心で心配してくださっていたと思います。

五百旗頭先生もその数年前、似たようなジレンマを抱えていました。先生は2006年半ばに神戸大学を離れ、横須賀にある防衛大学校の第8代校長に就任されたのです。先生は私たち教え子にも相談してくれました。これは先生にとっても国にとっても、素晴らしい決断だと私は思いました。幸いなことに、先生は内閣承認をもって発令される上級職(桜星4個と同位)に就きながら、学者としての自由を多く保つことができました。

私はこの数年間、五百旗頭先生と定期的に話したり会ったりして、私のアメリカ政府での仕事ぶりを知ってもらうとともに、サントリー文化財団や防衛大学校など、五百旗頭先生とその関係者の方々に、日米同盟、そしてその中でのアメリカ海兵隊の役割への理解の促進に努めました。

先生と最も頻繁にやり取りしたのは、2011年3月の東日本大震災の後でした。私は直ちに米国海兵隊(後に在日米軍司令部)の前方司令部部隊の政治顧問として、全国に5つある陸上自衛隊の方面隊の1つ、東北方面総監部がある仙台駐屯地に派遣されました。東北方面総監部は当時、私も以前より面識があった君塚栄治陸将が指揮官を務めていました。君塚陸将は五百旗頭先生の下、防衛大学校 副校長(幹事)を務めた後、仙台に赴任されました(桜星3個)。君塚陸将は3月14日、震災対応を担当する統合任務部隊(JTF)指揮官に任命されました。

五百旗頭先生と私は当時、定期的に話をしていて、先生は君塚陸将を全面的にサポートするように、そして必要なときには励ましてほしいと言われました。私はそれを喜んで引き受けました。君塚陸将はご存知の通り、素晴らしい活躍をされましたが、4年半後の2015年末、退任直後に若すぎる死を遂げました。

震災後、五百旗頭先生が理事長を務めた「ひょうご震災記念21世紀研究機構」の会合や会議で、震災前の2006年3月に私が提言しながらも、残念ながら2011年3月の震災以前に当局によって活用されることはなかった内容を紹介しながら、教訓を発表する機会を得ました。

災害への対応、備え、そして減災。これらもまた、先生と私の人生が深く関わり合っている部分でした。五百旗頭先生と私は1995年1月の阪神・淡路大震災を経験し、五百旗頭先生は自宅に大きな被害を受けました。それだけではなく、最も有望視されていたゼミ生の一人で、ジャーナリズムの道を志し、すでに日本を代表する新聞社から内定を受けていた森渉さんを震災で失いました。その後私はボランティア活動や国際救援活動の通訳に携わるようになり、五百旗頭先生は、教訓を深く受け止められました。五百旗頭先生はこの情熱、いえ、使命を、生涯にわたり果たし続けたのです。

1995年1月の阪神・淡路大震災で、愛媛県にて無念の死を遂げた同級生、工藤純さんの実家を弔問する五百旗頭先生。純さんは修士課程1年の時に別の先生にお世話になりましたが、五百旗頭先生の大ファンでした。五百旗頭先生は、どの指導教員についているか関係なく、すべての学生を大切にしてくださいました。筆者(左)の背後にいるのが母、延子さん。同級生の高原秀介さん(筆者の隣)、蓑原俊洋さん(右)。
(写真提供:本文筆者)

2011年3月の震災では、防衛大学校の教え子である幹部候補生が活躍したほか、2016年4月の熊本地震では、当時、熊本県立大学の理事長を務めていた五百旗頭先生は、東日本大震災後と同様に、熊本地震からの復興計画策定にも尽力されました。

五百旗頭先生は、教え子や研究に対するのと同じように、与えられたあらゆる仕事に全力を尽くしました。おそらくクリスチャンとして、神から与えられた才能、慈愛、知性、勇気など、数え切れないほどの才能を生かすことが、大切だと考えておられたのだと思います。

五百旗頭先生の仕事や私生活についての側面は、ここで紹介しきれないほどたくさんあります。五百旗頭先生との多くの経験や、先生から学んだこと、先生について学んだことについて、何日でも書き続けることができるでしょう。

先生と30年以上お知り合いになれことは本当に幸運でした。先生は素晴らしい教師であり、研究者であり、指導者であり、友人でした。血のつながりはなくとも、家族同然の存在でした。

そのため、先生が亡くなった翌週早々に行われた、私的な葬儀に招待されたことは、私にとって光栄なことでした。葬儀が3月11日、東日本大震災の記念日に執り行われたことは、さらに特別な意味を持つものでした。

五百旗頭先生は今、天国で奥様やご両親をはじめ、先立たれたご家族や友人たちと再会されています。しかし間違いなく、亡くなった世界の指導者や学者たちと、研究や議論を続けておられるはずです。そして間違いなく、愛情深い家庭人、忠実な友人、そして献身的な教育者として、地上のご家族や友人、そして教え子たちを、空の上から見守り続けていることでしょう。

五百旗頭先生と最後にお会いしたのは、2023年、西宮で行われた自衛隊の音楽会で、私は妻と参加しました。戦後日本の自衛隊を構成する人々への支持と感謝の意を表しながら、先生はとてもお元気で、楽しそうにしていらっしゃいました。先生が防衛大学校を率いていたときの教え子たちもいました。

このときお会いして以降、昨年12月に私が日本国際問題研究所(JIIA)にシニアフェローとして加わったことを、亡くなる前にお伝えする機会がありませんでした。JIIAとお仕事されている、息子さんの五百旗頭薫東京大学教授をはじめ、共通のネットワークを通じて先生もご存知だったはずです。それでも、直接お伝えしなかったことが、悔やまれます。五百旗頭先生とJIIAの長い協力関係を考えれば、私の就任を聞いて喜んでくださったことと思います。今後、五百旗頭先生のご指導のスタイルを、特にJIIAにインド太平洋地域からやってくる有望な若手フェローたちに発揮できるよう、さらには研究に対する先生の献身を受け継いでいけるよう、精一杯努力したいと思います。

五百旗頭先生、安らかにお眠りください。あなたのおかげで、世界はより良い場所になりました。