1.世界銀行融資と自民党優位体制
2024年8月17日から8月26日まで、ワシントンD.C.にて、資料調査を実施した。日本国際問題研究所の国際共同研究支援事業補助金「領土・主権・歴史調査研究支援事業」の中の「日本政治外交史研究会」の委員として、2025年度に刊行予定の論文を執筆するために、現地での一次資料を調査・収集することが目的であった。
執筆予定の論文の構想は、2024年3月17日に開催された公開シンポジウム「2つの開国:幕末〜戦後日本の政治と外交」の中で、「戦後開発政治と世界銀行融資」と題して、すでに中間報告したことがある1。
明治後期から大正期における国家運営と政党内閣化の進展に関する研究分野では、立憲政友会に代表される政党の台頭は、国家的資源を投入して地方のインフラ整備を説く「地方利益論」を原動力としたものと考えられてきた。これは本来、戦後日本の高度経済成長期における地方での「開発政治」の展開を、戦前の民主化過程に投影しようとする分析枠組みであった。しかし、戦前政治史における「地方利益論」の研究が豊かに発展しているのに比べると、肝心の戦後政治史における「開発政治」と自民党政権の連関を読み解く研究領域は、昨今さほど広がっていない印象を受ける。2012年から2020年までの第2〜4次安倍晋三内閣において、国土強靭化や復興五輪などを掲げた大規模開発政策が再び展開されたことを踏まえると、今こそ再び戦後開発政治の機能と実態を検証すべき時期が到来しているようにも思われる。
この点で、1950年代後半から1960年代の日本政治には、興味深い特徴がある。この時期は、1955年に結成された自由民主党が、日本社会党というライバル政党に比べて、長期間優位になる政党政治が確立する過程として、しばしば位置づけられている。そして、これとほぼ同時期に、東名・名神高速道路や東海道新幹線といった戦後日本の幹線たる主要インフラが、世界銀行(正しくは国際復興開発銀行だが、以下では世界銀行と呼ぶ)からの大量の融資を得て、次々に建設されていった。戦前日本の「地方利益論」を念頭におくと、これらの二つの事象には当然ながら関連性があるものと想定される。しかしながら、その連関および意義について、内在的に考察した政治研究は、不思議なことに空白状態になっている。
以上の研究状況をもとに、この論文では、戦後の世界銀行融資と自民党優位の開発政治の展開について、歴史資料に基づいて実証的に解明することを目指している。そのためには、世界銀行の融資がどのように計画・実施されたのかを、アメリカの各機関に所蔵されている一次資料で追跡する作業が不可欠である。これが、このたびのアメリカでの調査の最大の目的であった。
2.デジタル化が進む世界銀行資料
世界銀行の資料は、ワシントンD.C.の本部にある文書室(World Bank Group Archives reading room)で、閲覧可能になっている。直近に訪問した2019年5月には、午前10時から午後4時まで、静かな文書室で、大量の資料を閲覧・撮影できた。その時は、1955年の第22回国会で関連予算や関連法が成立した愛知用水事業に関して、世界銀行での政策決定過程を示す一次資料を重点的に調査していた。世界銀行の内部会議資料から、日本の担当者との交渉メモ、さらには世界銀行の調査団が日本の融資対象先を現地訪問した際の記録など、膨大な文書が、年代順かつジャンル別に、非常に整って保存されていたことに、大きな刺激を受けた訪問調査であった。そしてまた、このときの短期間の調査だけでは、世界銀行資料という氷山の一角にしか触れられず、さらなる追加調査が不可欠なことを痛感していた。
その後、再訪の機会を探していたものの、2020年3月からの新型コロナウィルス問題により、しばらく足が遠のく羽目になった。そのため、まずは日本国内の資料を用いて取り組もうと方針転換し、国会議事録を詳しく追跡していくと、外資導入をめぐって与野党間で激しく対立していた政治状況が浮かび上がってきた。その着想に基づき、1955年の愛知用水事業から、1957年の東北開発三法(東北開発促進法、東北開発株式会社法、北海道東北開発公庫法)の制定に至るまでの国会論争を再現する論考を、辛うじて取りまとめることができた2。
ポスト・コロナの状況となり、今回5年ぶりにアメリカを訪問して、資料調査を再開できた。まず驚いたことは、コロナで対面調査が制約されていた中で、資料のデジタル化がかなり進捗していた現実である。前回2019年の調査時に、閲覧・撮影作業が中途で終わってしまっていた世界銀行と日本政府の交渉記録の簿冊群3から作業再開と考えていたものの、これらは全て2021年夏にデジタル化されているとのアーキビストの回答であった。あわせて前回は世界銀行の対日融資31プロジェクトのうち、愛知用水事業と農業開発事業の2種類にしか手が及ばなかったこともあり、他のプロジェクト資料の状況も確認しようと企図していた。ところが、前回調査時にも、それらの一部がデジタル公開されている現状は把握していたものの、コロナ禍を経て、どの資料がデジタル化され、どの資料がされていないかなど、ウェブサイト上にプロジェクト単位で一覧化されていたことに、遅ればせながら気づいた4。すでに対日融資資料の約70%はデジタル公開済みであり、これだけあれば日本からパソコンを通じて、当時の政策過程を十分に再現可能であろう。
31プロジェクトに関する資料のデジタル公開状況は、日本での研究状況や関心事の所在と、ある種の相関関係が見られる。おそらくは利用頻度が高い資料から、優先的にデジタル化を進めているようであり、対日融資の一次資料の利用状況は、当然ながら日本の研究動向に左右されがちである。
31プロジェクトのうち、最も早くにデジタル化されたのは、1961年5月に締結された東海道新幹線に関する資料である。世界銀行の対日融資の中で、最もよく知られたプロジェクトの一つであり、2013年9月に概ねデジタル化が完了している。デジタル化未着手だった残りの資料も、コロナ禍の2022年に追加でデジタル化されていた。
デジタル公開されている資料の大半は、2014年に作業されている。全16プロジェクトの資料であり、とくに1953年10月の火力借款3件(関西電力多奈川発電所、九州電力苅田発電所、中部電力四日市発電所)から、1957年8月の愛知用水事業までの全8件と、1963年9月の東名高速道路建設から、1965年9月の阪神高速道路公団の神戸市高速道路の事業までの6件の資料が、含まれている。これらは、浅井良夫氏による時期区分によれば5、開始期にあたる第一期(1953-1957)と、再開期にあたる第三期(1963-1966)にほぼ該当し、最盛期にあたる第二期(1957-1961)のものは、川崎製鉄への第二次借款(1958年1月締結)と、関西電力の黒部第四水力発電事業(1958年6月締結)のごく一部しか、デジタル化されていない。あくまでも推察だが、浅井氏の研究が、まず第一期を分析対象として進んでいったことで、第一期の資料のデジタル化から着手され、さらに第三期については、東海道新幹線に続いて、これも有名な東名高速道路の資料から、デジタル化の対象に選ばれていったように思われる6。
自民党政権の確立過程との関連でいえば、むしろ第二期(1957-1961)の事業展開が興味深い。そこで、今回の調査時に、それらの資料調査を申請したところ、アーキビストからは、申請を受けてデジタル化するので、その作業が完了するまで待ってほしい、との返答があった。2ヶ月後、10種の資料をデジタル化したと、そのURLとあわせて、メールでの通知が届いた。たとえば、1960年3月に日本道路公団が結んだ名神高速道路の建設事業に関する資料は、今回の作業で全てデジタル化されており、ほかにも前後の時期の電力開発に関する資料などが含まれている。ウェブサイト上(2024年11月24日段階)では、まだこれらのデジタル資料はアップロードされていないようだが、いずれ近日中に公開されるものと思われる。同じく第二期に該当する1960年12月の川崎製鉄千葉工場に関する600万ドル融資や、同時期の住友金属和歌山工場への700万ドル融資に関する資料も、2022年と2023年にデジタル公開されており、これらも今回の調査と同様に、コロナ禍で利用申請があったものを追加でデジタル化したものと推察される。
3.米国公文書館に所蔵されていた外資導入交渉の記録
戦後初期の対日融資は、世界銀行だけではなく、アメリカ政府の機関であるワシントン輸出入銀行とも交渉が展開されていた。それに関する一次資料は、アメリカ公文書館の国務省文書の中に含まれている。それらはコロナ禍を経てもデジタル化されておらず、現地に訪問し、実物を手に取って調査する必要がある。アーキビストの協力を得て、目的のファイルを特定でき、そこに含まれていた対日融資関係の一次資料を一つずつ閲覧できた7。このファイルは、Phil Russell Atterberryという元国務省職員の残した資料群であり、1950年から1957年までのワシントン輸出入銀行による対日融資の会議資料などを多く収めている。
先に述べた1953年10月の火力借款は、日本が世界銀行と初めて結んだ借款であったが、当初はワシントン輸出入銀行からの借款を交渉していたことが、すでに先行研究によって明らかになっている8。占領下の1948年には、ワシントン輸出入銀行を含む銀行団と日本が6000万ドルの綿花借款を締結しており、講和独立前の1950年段階から、複数の日本企業が、アメリカからの機械や設備の輸入を求めて、ワシントン輸出入銀行との交渉に着手していた。今回閲覧した資料には、3つの電力会社だけでなく、複数の化学産業会社であったり、水力発電所の建設に関心を示す高碕達之助(初代電源開発総裁)であったり、多くの関係者がワシントン輸出入銀行と接触していた記録が示されていた。
もっとも、ワシントン輸出入銀行と世界銀行は、アメリカ国外への融資を実施する役割が重複する競合関係にあり、それゆえに1953年4月には交渉がほぼ完了し、あとは決定を待つ段階にあったワシントン輸出入銀行との火力借款は、世界銀行の強い反対を受けてしまう。そこで、契約主体をワシントン輸出入銀行から世界銀行に移行して、同年10月の火力借款が締結されている。外務事務官・在ワシントン日本政府在外事務所員として、この交渉に深く尽力していた大蔵省の渡辺武が、当初想定していなかった世界銀行の強硬な態度に接してとまどった様子も、この資料の中に詳しく記されていた。世界銀行からの初めての外資導入事例だったからこそ、こうした混乱も発生したのであり、それらの経緯を内側から伝える一次資料には、当時の努力や苦悩が今なお熱気を帯びて刻まれていた。
この火力借款については、吉田内閣の姿勢が国内的配慮を欠いており、9つの電力会社間での地域間格差をさらに拡大してしまうとして、野党の社会党や改進党から批判の声があがっていく9。特定地域に対して新たな設備を導入する世界銀行からの借款は、国内の政党対立にも変換される問題だったのである。しかし、なぜこの3つの電力会社を対象とするのかは、それに先立つワシントン輸出入銀行との交渉を見なければわからず、それを再現するための貴重な一次資料に今回めぐり会えた。2025年度に刊行予定の論文では、これらの海外調査の成果をなるべく盛り込んで、当時の政策過程に少しでも接近できればと願っている。
4.世界銀行融資への国内政治要因
今回アメリカで調査した国際金融アーカイブズには、戦後日本の復興と発展を信じて、真剣な議論と交渉を続けていた人々の姿が、克明に記録されていた。現場で奮闘していたのは、日本の政策担当者や企業人だけにとどまらない。世界銀行やワシントン輸出入銀行で融資可能性を判定していた金融家もまた、経済や金融の力を通じて、傷ついた国際秩序の復元と安定を実現しようと、懸命に取り組んでいた。まだ戦禍の癒えない時期であり、この外資導入プロジェクトには、戦後日本のみならず、世界的な自由社会の未来がかかっていたのである。
残念ながら、これらの国際金融アーカイブズには、当初に期待していたよりも国内政治との結びつきが記述されていなかった。少し考えてみれば当たり前で、そもそも借款の交渉時に、そのプロジェクトが国内の特定の政治的基盤に反映されるなどと発言してしまっては、融資自体の先行きはきわめて不透明になる。もちろん実際には、国家的プロジェクトには多様な利害関係者が伏在しており、こうした事業の選定過程で政治的要因が全く排除されているとは考えにくい。しかし、その政治的因果関係の謎解きを、当時のアーカイブズに直接求めるのは、やや筋違いな期待だったのかもしれない。
世界銀行融資の政治的動機に、より敏感に反応したのは、当時の野党勢力であった。外資導入による新幹線や高速道路、発電施設などが、与党優位の体制を強化する機能を有している点に、彼らと選挙で争う人々は直接的な脅威を感じたからである。これは、国際金融アーカイブズが記す世界とは、次元の異なる話であり、それを再現するには別の歴史資料を求めなければならない。一次資料の豊富な戦前政治史の土地勘を抱いている者にとっては、なかなか難しい作業だと日々痛感しているものの、多種多様な才能の持ち主が集まる本研究会での学びを通じて、なんとか論文として身を結ぶことができるように、引き続き取り組んでいく所存である。
今回の資料調査は、日本国際問題研究所の関係スタッフのご協力によって実現できた。特に記して御礼申し上げたい。