つい一ヵ月前までは、圧倒的に優勢と評価されていたハワード・ディーン候補(前バーモント州知事)の失速傾向が明らかになり、民主党の大統領候補指名争いから撤退した。またディーン候補への対抗馬として、民主党中道派グループが送り込んだウェスリー・クラーク候補(元NATO軍最高司令官)も早々と撤退した。クラーク候補は、ディーン候補と自らを対比させるかたちで選挙戦に臨んだが、ディーンが失速したことにより、その存在理由を失ってしまうかたちとなった。いまや民主党の大統領候補指名争いは、ジョン・ケリー候補(マサチューセッツ州選出上院議員)とジョン・エドワーズ候補(ノース・カロライナ州選出上院議員)の2人に実質的に絞られている。ディーン候補は、候補者指名のプロセスが正式に始まる前の所謂「インビジブル・プライマリー」と呼ばれる期間、民主党内の「反ブッシュ感情」を動員し、大きなうねりを形成していった。しかし、それは、いとも脆く崩れ去っていった。ディーン候補の2003年のキャンペーンは歴史的には失敗例として記憶されることとなろうが、ディーン候補本人とは離れた大きな政治力学を形成した点は正当に評価されるべきであろう。
イラク戦争が終結した2003年春、民主党内には、ブッシュ大統領には勝てないだろうという「諦め感」が漂っていたことは否定できない。ワシントンの政治評論家たちも、民主党は2008年の大統領選挙を視野に入れて動いているとの見方をとっていた。そのような状況の中、現職のジョージ・W・ブッシュ大統領とそのチームは、「It's the war, stupid」という標語を内々に掲げ、安全保障に弱いというイメージが定着している民主党に勝ち目はないという楽観的なシナリオを描いていたといわれる。
しかし、2003年の夏頃になると、イラクの復興プロセスが、どうもブッシュ政権が思い描いていたような、スムーズなものではないことが次第に明らかになっていく。当時、主要候補と目されていたケリー候補やジョセフ・リーバーマン候補(コネチカット州選出上院議員、すでに指名争いからは撤退)は、イラク戦争を支持したことを強調し、そのことを通じて安全保障問題に関し弱腰ではないことを強調しようとしていた。この隙間を狙って、台頭したのがディーン候補であった。
ディーン候補のキャンペーンは、しばしば「社会運動」の熱気を放っているとの評価をされた。それは、ディーン候補が所謂ワシントンのインサイダーではないことも大きく作用していたが(ディーン候補はワシントンでの政治経験がない)、それ以上に、インターネットを単にメッセージを伝達する一方通行の媒体として活用するのではなく、インターネットの双方向性という特性を活かし、点在する草の根の「反ブッシュ感情」を効果的に動員し、自らもその波の中に飛び込んでいった点が、社会運動と評された主たる理由であった。言い方を変えれば、ディーン候補のキャンペーンは、候補者発のメッセージを中心に構成された運動ではなく、すでに草の根に点在していた感情を一つの方向に向かわせた「整流器」のような存在であったといえる。
2003年夏以降、イラク情勢の混迷化、そして戦争以前は封じ込められていた介入の是非をめぐる議論が本格的に表面化していくとともに、ディーン候補は、「ブッシュ政権不信」を担う「政治象徴」となっていく。「怒れるディーン」というイメージは、相乗効果的に「反ブッシュ感情」を煽り、民主党内に「もしかしたらブッシュに勝てるかもしれない」という思いを呼び起こす効果をもった。そして、このような思いは、中途半端にイラク戦争を支持し、「軽めのブッシュ(Bush-lite)」としてブッシュ大統領と対決するのではなく、「反ブッシュ」を明確に掲げる必要があるという考えに民主党全体をシフトさせた。
しかし、制御が難しい「草の根の反ブッシュ感情」を中心に構成されたディーン運動に危機感を感じた民主党エスタブリッシュメントは、ディーン氏が実際に本選挙でブッシュ大統領と対決した場合に、勝てるかどうか(electability)ということを問題にしていくようになる。つまり、民主党のコアな支持者を主たる対象とする予備選ではディーン候補は力を発揮しえたとしても、より幅広い層を対象とする本選挙においては、「反ブッシュ」というネガティブな感情のみでは、共和党には勝てないだろうという読みが次第に影響力をもつようになっていった。
ディーン氏にとってみれば、皮肉なことに、自らが動員し、民主党内に活気を復活させた「反ブッシュ感情」は、誰でもいいからブッシュに勝てる人を候補者にすべきだという新たな問題意識を生み出し、「怒れるディーン」、「左派ディーン」というイメージが逆に負の効果を持つようになっていく。ディーン候補は、バーモント州知事時代、財政均衡を実現、さらに銃を保有する権利を部分的に擁護し、単純に「左派」というレッテルを貼ることができない経歴を有していた。しかし、ディーン候補は、自らを「民主党内の民主派(Democratic Wing of the Democratic Party)」と規定し、他の主要候補者を「民主党内の共和党派(Republican Wing of the Democratic Party)」として批判し、自分が結果として担うことになった役割を敢えて修正しようとはしなかった。そして、このようなディーン候補の「危うさ」は、経歴的にも、政策的にも一番安定し、無難なケリー候補への支持という新たな力学を生み出すにいたった。おそらく、これまで行われた党員集会や予備選挙において、ケリー候補に支持が集まったのは、ケリー候補ならば、本選挙において自分以外の人たちも支持しうるだろうとの見方が多いに作用したと思われる。
ディーン運動の最終的な評価は、2004年の大統領選挙の結果を見てからでなければ下せないであろう。しかし、民主党内に漂っていた「諦め感」を超克するような力学を形成する引き金を引いたという意味で、単純に失敗した選挙運動という一語でもって片付けてはならないであろう。2004年の大統領選挙は、9.11テロ攻撃後初の大統領選挙であること、現職が党派色の強いブッシュ大統領であること、また2000年の大統領選挙の経緯、そして2002年の中間選挙の民主党の敗北などの要因が作用し、極めてエモーショナルな選挙となることが予想される。しかし、興味深いのは、「ブッシュ不信」という「思い」があまりに強いために、逆に「思い」の部分を封印し、これまで予備選挙や党員集会に参加した民主党員が、ケリーというブッシュに勝てる(かもしれない)「無難」な候補を選択した点である。しかし、これもディーン候補の「反ブッシュ感情」の動員というプロセスを経て初めて可能となったのかもしれない。今後は、ディーン候補が選挙参謀のジョン・トリッピーとともに作り上げた草の根の支持基盤と資金集めのネットワークを、いかに民主党が党のインフラとして取り込んでいけるかが極めて重要な課題となるであろう。
(2004年2月20日記)
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