一般にクルディスタンと呼ばれるトルコ、イラン、イラクなどにまたがった山岳地帯に居住し、ペルシャ語系のクルド語を母語とする民族。イスラム以前からの言わば「先住民族」であるが、山間部に割拠していることから、民族規定の根幹であるクルド語には方言が多く、実際の意思の疎通には支障がある。代表的な方言である北部のクルマンジーと南部のソラーニーの2つのみが文語を有しているが、両者は異なる文字を使用している。人口は推定に頼らざるを得ないが、その幅は大きく、80年代初頭まで1000万前後であったものが、現在は2500〜3000万と言われる。試みに91年湾岸戦争当時の諸推定の平均を挙げれば、総人口2100万、トルコ東部に850万(トルコ人口の14%)、イラン北西部に600万(同9%)、イラク北部に300万(同15%)となっている(その他は、シリア北東部やアゼルバイジャンなどに居住)。スンナ派が多数を占めるが、シーア派諸派の信徒もいる。
ペルシャ圏、アラブ圏、トルコ圏がぶつかり合い、その分水嶺のような山岳地帯に居住することから、歴史的には各王朝から一定の集団と認定され、自治を認められる一方で、王朝間の攻防の舞台ともなった。特にオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシャとの戦場となり、1639年の和議による境界線の設定が、民族分断の最初とされる。しかし、現在のクルド人問題は、近代のナショナリズムと国民国家体制の影響を受けて以後のことである。第一次大戦後のオスマン領分割において、イギリスはクルド民族国家構想を1920年セーブル条約に盛り込んだが、その後トルコのケマル・アタチュルクの拒絶により、23年ローザンヌ条約では削除され、クルド人居住地域はトルコ共和国および英仏委任統治領(イラク、シリア)に分断された。分断状態では、各国ごとの国民統合の過程で少数派となるが、民族そのものはイラクの総人口を上回る規模であることが、クルド人問題の最大の特質と言える。
第二次大戦直後の46年、ソ連占領下のイラン北西部マハーバードでクルディスタン人民共和国が独立したが、ソ連撤退により約1年で崩壊した。このときの大統領カーズィー・ムハンマドがイラン・クルド民主党(IKDP)の創設者であり、その軍事面の指導者ムスタファー・バルザーニーは、のちにイラクのクルド民主党(KDP)の党首となった。独立や自治を求める他のクルド人組織としては、トルコのクルド労働党(PKK、78年設立。政府との武力闘争を続けた。99年オジャラン議長が逮捕され、死刑判決を受けたが、2002年終身刑に減刑)、イラクのクルド愛国同盟(PUK、75年にジャラール・タラバーニーが左派インテリ層を率いてKDPより分離)などがあるが、大小または武装・非武装の様々な組織が多数存在し、相互の対抗関係から民族運動としての団結に極めて乏しい。さらにトルコ、イラン、イラクの各政府は、国内のクルド人勢力を抑えながら、互いに隣国のクルド人組織を支援してきた。支援を受けたクルド人組織が、政府間の和解により孤立した事例も多い。このような地域の覇権争いや情勢の変化に翻弄されつづけたことも、組織間の対立を深めた。
大半の組織が世俗左派の民族主義思想を標榜するが、近年イラクではクルド・イスラム運動(IMK)やクルド・イスラム連盟(ILK)といったイスラム系の組織が勢力を伸ばし、加えて小規模ながら、アルカーイダと密接な関係を持つアンサール・アルイスラムという組織も生まれている。湾岸戦争後、イラク北部のクルド人地域は実質的な自治を確保し、92年に選挙を実施して自治議会および政府を確立したが、94年の内部対立以降は議会・政府が機能せず、KDPが西部を、PUKが東部をその勢力下に置く状況が続いている。イラクのマルチ・エスニックな政治環境や、国内に兵力を有する反体制派がクルド人諸組織のみであることなどから、現在のイラク問題において、これらクルド人勢力の動向が注目されている。
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