周知のように、サウジアラビアの原油確認埋蔵量は2618億バーレル(2001年)で全世界の約25%、原油生産量は877万バーレル/日(2002年)で全世界の約12%を占め、ともに世界第1位である。日本の原油輸入(2003年)においても、その中東依存度88.5%のうち、サウジアラビアはアラブ首長国連邦(24.3%)に次いで第2位(22.8%)を占めている。そして、その油田が集中しているのが、同国のペルシャ湾(アラビア湾)一帯に位置する東部州である。
東部州の人口は約289万人(1999年、外国人を含む)。北をクウェートとの国境に接し、そこからペルシャ湾沿いにアラビア半島西部からの伏流水が湧き出す大規模なオアシス地帯であるアハサー(別名ハサー)地方、カティーフ地方が続き、内陸部で半島最大のルブウ・アルハーリー砂漠に入って、オマーンおよびイエメン国境にいたる同国最大の州。20世紀初めまでは、オアシス農業と小規模な漁業や交易を主たる産業としていた。2つのオアシス地帯には、サウジアラビア国内でシーア派(12イマーム派)の住民が集中することでも知られる(推定100万人)。1952年にホフーフを州都とするアハサー州に周辺地域を加え、州都をダンマームに移して、現在の東部州が設置された。
1932年にペルシャ湾上のバハレーンで石油が発見されると、その対岸のサウジアラビアにも油田発見の可能性が広がり、33年に米石油メジャーのスタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア(SOCAL、現シェブロン)が油田の開発権をアブドルアジース初代国王から取得した。SOCALはテキサコと共同で、1938年にペルシャ湾岸のダンマームやホバルから約10〜15km内陸のダハラーン(別名ダーラン)で石油を発見。続いて、その北方で40年にブカイク(別名アブー・カイク)油田が、48年にはガワール油田(面積4360平方kmに及ぶ世界最大級の油田)が発見された。その後も、サファニーヤやクウェートとの中立地帯、ペルシャ湾の海底などで油田の発見が続いた。第二次大戦後には、エクソンやモービルも加わってArabian
American Oil Company(ARAMCO、のちに国有化され現在はサウジ・アラムコ)が設立され、本格的な石油の生産と輸出を開始した。沿岸にはラアス・タンヌーラ、ラアス・アルカフジ、ダンマームなどの石油積出港やジュベイル工業地帯が並ぶ。
これら石油産業の拠点となったのが、近接するダハラーン、ダンマーム、ホバルの3都市である。もともと、ダンマームとホバルは小さな漁村に過ぎず、ダハラーンは砂漠であったが、石油開発とともに急速に近代都市として発展・拡大した。10〜15km間隔の三角形に位置する3都市の合計人口は約35万人で、周辺を合わせたダンマーム地区の人口は76万4000人(2000年推定)。ダハラーンには現在でもサウジ・アラムコ本社が置かれ、多くの関連会社や石油・鉱物資源大学などもあるが、人口は最も少ない。ホバルは、1938年に最初の石油積出港が建設されたが、50年からダンマームの港湾整備が始まると、石油産業の従事者やその家族ための住宅地・商業地に変貌した。州都ダンマームは、1951年にリヤドと鉄道がつながり、地域の政治・経済の中心地となった。サウジアラビアと西洋との接点としては、商業の中心地であり1983年まで外務省や外国公館が置かれていたジェッダが有名だが、都市やそこでの生活に関する西欧化に関しては、この3都市がサウジアラビアで最も早く、最も徹底したものだった。都市建設自体から米企業が関わり、住民にも米国人をはじめとする石油関連の外国人が多い。
1991年の湾岸戦争以降、イラクに設けられた飛行禁止空域の南側の監視飛行(サザン・ウォッチ)のために、ダハラーン空軍基地に米空軍が駐屯すると、96年にホバルの米軍宿舎に対する爆破テロ事件が発生した(その後、米空軍はより内陸部のスルターン空軍基地を使用)。米軍は2003年イラク戦争終了後に撤退したが、2004年5月29日には再びホバルで、武装集団が石油関連企業や外国人居住地を襲撃し、人質をとって立てこもる事件が発生した。いずれも、オサーマ・ビンラーディンやアルカーイダに関係するイスラム過激派による犯行と見られている。
(2004年6月7日記)
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