研究レポート

「多民族国家シンガポール」の戦略的意義

2021-11-18
菊池努(青山学院大学教授/日本国際問題研究所上席客員研究員)
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「インド太平洋」研究会 FY2021-1号

「研究レポート」は、日本国際問題研究所に設置された研究会参加者により執筆され、研究会での発表内容や時事問題等について、タイムリーに発信するものです。「研究レポート」は、執筆者の見解を表明したものです。

はじめに

シンガポールは規模の小さな国家ではあるが、国際的な通商国家として国際経済や金融の分野で国の規模をはるかにしのぐ国際的な存在感を有している。シンガポールはまた、東南アジアの国際関係はもとよりインド太平洋の政治、経済、安全保障においても重要な役割を果たしてきた。ASEAN(東南アジア諸国連合)内の協力や東アジアにおける協力、地域の自由貿易協定の締結など多国間協力の分野でシンガポールは数多くのイニシアティブをとってきた。同国の積極的な対外政策は国際的にも評価されている。バイデン米政権の国防長官や副大統領が過去数か月のうちに相次いで同国を訪問していることにもそれは表れている。

シンガポールの積極的な対外関係を支えているのが「多民族国家シンガポール」という国家アイデンティティである。しかし今日、シンガポールの「多民族国家」としての国のあり方が挑戦に晒されている。その行方は、同国の国のありかただけでなく、東南アジア、そしてインド太平洋の国際関係全体に重大な影響を及ぼすであろう。

シンガポールは、人口の4分の3を華人・華僑が占める。しかし、華人・華僑が国民の圧倒的多数を占めるにもかかわらず、シンガポール政府は建国以来、自らを「中華国家」ではなく、「多民族国家」としての国家アイデンティティを醸成してきた。マレー系やインド系など、異なる民族がそれぞれの文化伝統を尊重しつつ、対等な民族として共存する政策を同国は推進してきた。

しかし近年、このアイデンティティを揺るがす動きが顕在化している。世界的な潮流として「アイデンティティ・ポリティクス(民族、人種、宗教など特定のアイデンティティが政治社会的な問題での態度決定に大きな影響を及ぼす政治)」が台頭しているという事情もその背景のひとつだが、より重要な問題はアジアにおける中国の台頭とその対外政策である。中国という要因がシンガポールの国のあり方に影響を及ぼしている。

今後シンガポールの「多民族国家」のアイデンティティが弱まり、「中華国家」としてのアイデンティティが強まると、それはシンガポールという国家のあり方を変えるだけでなく、東南アジアの国際関係に甚大な影響を及ぼす可能性がある。シンガポールの近隣諸国との関係(マレーシアやインドネシアとの関係)は緊張し、ASEANの機能は著しく弱まり、東南アジアの国際関係は不安定化せざるをえないであろう。シンガポールが「多民族国家」としての国家アイデンティティを今後も維持できるか否かは、東南アジアの国際関係(そしてそれを通じてインド太平洋の国際関係)の今後に大きな影響を及ぼす問題なのである。

東南アジアの国際関係と民族

シンガポールは民族や宗教の違いが対立と紛争を惹起する東南アジアという地域に生まれた、華人・華僑が多数を占める国家である。シンガポールは、いわゆる「中華圏」(大陸中国、台湾、香港、マカオ)の外にある、華人・華僑が圧倒的多数(76%)を占める唯一の国である。

ただ、シンガポールはマレーシアからの分離独立の経緯が示すように、その国家アイデンティティを「中華国家」ではなく、すべての民族が平等に国家を形成する「多民族国家」に求めてきた。シンガポール政府は自国民に多民族国家としてのアイデンティティの醸成を促してきた。それぞれの民族が自らの伝統文化を維持しつつも、他の民族を尊重し、すべての民族が対等に共存できる国家作りを進めてきた。

「多民族国家シンガポール」は、周辺諸国との関係を円滑にすすめるためにも不可欠だった。シンガポールのすぐ隣にはインドネシアとマレーシアという二つのマレー国家が存在する。この周辺諸国の状況がシンガポールの国内政治と対外政策に強く作用してきた。

東南アジア諸国の関係においては、民族や宗教の多様性が国家間関係に対立と緊張を生んでおり、これをいかに管理するかが東南アジアの国際関係において重要な課題であった。

1967年にASEANが発足するが、その目的はこうしたアイデンティティに根差す紛争と対立の要因を抱える東南アジアの諸国間の関係に一定の秩序をあたえることにあった。1東南アジア諸国同士の対立は、域外大国に内政に干渉する口実を与え、再び東南アジアが大国の抗争の場になり、東南アジア諸国の独立や主権が脅かされる可能性があったからである。「紛争の平和的解決」の原則は、相互不信がいまだ根強い東南アジア諸国の関係に一定の安定性を与える最も重要な原則であった。この事情は今日も変わらない。民族や宗教は東南アジア諸国の国内政治と国際関係を分断させる要因である。

国内に少数派の華人・華僑を抱え、民族の融和に苦慮してきたマレーシアやインドネシアなどの諸国は、華人・華僑が多数を占めるシンガポールが「華人国家」としての国家のアイデンティティとそれに基づく対外政策を追求するのではないかとシンガポール建国の頃から疑念を抱いていた。仮にシンガポールがそうなれば、それがマレーシアやインドネシアの華人・華僑社会を刺激し、その結果、国内の民族間の微妙なバランスが崩れ、政治が不安定化しかねなかった。

国内に複数の民族を抱える多くの東南アジアの国にとって、国内の民族問題への対処は最も機微な政治問題のひとつである。東南アジアのほとんどの国の国内に少数の華人・華僑のコミュニティが存在するが、かれらはそれぞれの国内で全面的に歓迎された存在ではない。民族的アイデンティティの違いが所得格差や信仰の相違などとむすびついて、各国の国内政治を不安定させる可能性がある。

シンガポール政府はこれまで、周辺の東南アジア諸国から疑念と不信の目で見られていることを理解していた。「多民族国家シンガポール」というアイデンティは、そうした東南アジアの地域環境の中でシンガポールが生存のために国造りの基本に置いた考え方だった。シンガポールは多くの国民が日頃使用する中国語ではなく、英語をリンガ・フランカとして採用した。また、シンガポールが中華人民共和国と国交を樹立するのはASEAN諸国のなかで最後であった。シンガポールは周辺諸国の不安を惹起しないよう内政と外交の両面で細心の注意を払ってきたのである。

中国の台頭と多民族国家のアイデンティティ

シンガポールのような建国後50年に満たない若い国家にとって、そうしたアイデンティティを維持し続けることは決して容易ではない。特に中国の動向がシンガポールに重大な挑戦を今日突き付けている。

中国は長い間シンガポールを「中華国家(Chinese State)」とみなし、中国の政策への支持や暗黙の了解を求めてきた。中国にとってシンガポールは「同胞」であり、少なくともシンガポールが公然と中国を批判することなどあってはならないことである。

シンガポール政府はこうした事情に配慮することなく「多民族国家シンガポール」を国家建設の柱に育ててきた。

しかし、このアイデンティを揺るがす2つの出来事が近年起こっている。一つは「中国の大国化」である。かつて中国が貧しく、国際的な影響力を有しないときには、中華系シンガポール人の「多民族国家シンガポール」というアイデンティティの中の「中華」のアイデンティが刺激される可能性は低かった。しかし、中国の大国化と共にシンガポールの華人・華僑のなかにある「中華」のアイデンティティが刺激され、それが「多民族国家シンガポール」の国家アイデンティを動揺させる可能性が出てきた。2

第二の出来事は、シンガポール国民の中にある「中華アイデンティ」を刺激する中国の工作が活発化していることである。中国は近年、東南アジア各地で現地の華人・華僑の「中華アイデンティ」を刺激し、根付かせるために、様々な活動を展開している。

習近平国家主席は、「中国の夢」の実現という巨大ビジョンを掲げている。その核心は「中華民族の偉大なる復興」にあるといわれる。習近平主席によれば、中華民族の偉大なる復興という夢は、中華人民共和国国民だけが追求し、享受するものではなく、世界各地で暮らすすべての中華系の人々が共有する夢である。3 シンガポールの華人・華僑も当然その一部である。

「中国の夢」の実現のために中国は海外に住む華人・華僑の「中華アイデンティティ」に訴える必要がある。2018年3月には、海外の華人・華僑問題を担当する部局が、共産党中央委員会傘下の統一戦線部の直轄部局となったといわれる。

シンガポールでもシンガポール国民の中にある「中華」を刺激する文化事業や広報活動が中国によって推進されている。4

2021年6月末に公表されたPew Researchの調査結果が興味深い事実を伝えている。世界の主要国を対象にして「米中それぞれに肯定的、否定的印象のいずれを有しているか」という質問に対し、調査を実施したほとんどの国で中国に否定的な回答が多かった中で、先進国の中で唯一シンガポールだけ中国に肯定的評価をした回答者が多数を占めており、その割合も64%と極めて高い。5

今後、シンガポールの華人・華僑の「中華アイデンティティ」が刺激され、「多民族国家シンガポール」という国家アイデンティティが変容するかもしれない。その結果、シンガポールの中に、中国の対外政策を公然と支持し、これを批判するシンガポール政府に異を唱える集団が現れるかもしれない。

そうした声に押されて、シンガポール政府の対中姿勢が変化する可能性もあるとすれば、その影響は東南アジア全体に及ぶであろう。つまり、多民族国家シンガポールの国のあり方が大きく変容し、それが他の東南アジア諸国の華人・華僑社会にも影響し、結果として東南アジア諸国間の軋轢を生む危険もある。

シンガポール政府自身も現状を楽観視しているわけではない。2021年8月29日のナショナル・デーの演説の中でリー・シェンロン首相は、シンガポールが直面する課題として、新型コロナ、経済の次に民族と宗教の問題を取り上げ、リー・クアンユー元首相ら建国の父が、異なる民族がそれぞれの文化や伝統を守りつつシンガポールという国家の中で協調・共存する「多民族国家」を目指していたことを改めて強調した。6リー首相はシンガポールが公用語として英語を採用したのは民族間で言語に有利不利があってはならないと考えたからだとも指摘し、民族間の平等と融和の意義を説いた。

シンガポールは、多国間主義の原則に基づいて、大国に対しても毅然と対峙してきた。同国は、日本が推進する「自由で開かれたインド太平洋」を実現するための有力なパートナーである。中国との緊密な経済関係を維持しつつ、同時に海軍施設の提供など。アメリカのアジアでの軍事的プレゼンスを支えるさまざまな支援も行っている。

多民族国家としてのシンガポールのアイデンティティは、こうした同国の建設的な対外関係を支える重要な国内的基盤である。同国がこのアイデンティを堅持することができるか否かは、この地域の将来にかかわる戦略的意義を有する。同国の動向を今後とも注視したい。




1 シンガポールの元外務次官のビラハリ・カウシカンによれば、ASEAN発足の目的は対立関係にある東南アジア諸国の間にささやかではあるが秩序と礼儀(civility)を与えることにあったという。
2 Wang Gungwu, "Singapore's "Chinese Dilemma" as China Rises," The Straits Times (Singapore). June 1, 2015.
3 2014年6月の海外の中華系の人々の連合体の会合での習近平主席の発言。
4 隣国マレーシアでは、2018年の総選挙の際に、在マレーシア中国大使がマレーシアの中国人連合の総裁の選挙区に出かけて選挙応援をするという異常な事態が起こっている。
5 Laura Silver, Kat Devlin and Christine Huang, Large Majorities Say China Does Not Respect the Personal Freedoms of Its People. Pew Research Centre. June 30, 2021. Retrieved from https://www.pewresearch.org/global/2021/06/30/large-majorities-say-china-does-not-respect-the-personal-freedoms-of-its-people/
6 なお、リー首相の演説はマレー語、中国語、英語の三か国語で行われた。PM Lee Hsien Loong delivered his National Day Rally speech on 29 August 2021 at Mediacorp. PM spoke in Malay and Chinese, followed by English. https://www.pmo.gov.sg/Newsroom/National-Day-Rally-2021-English