研究レポート

脅迫された文在寅政権、その政軍関係と対米自主

2021-02-01
渡邊 武(防衛研究所主任研究官)
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「『大国間競争の時代』の朝鮮半島と秩序の行方」研究会 第5号

「研究レポート」は、日本国際問題研究所に設置された研究会参加者により執筆され、研究会での発表内容や時事問題等について、タイムリーに発信するものです。「研究レポート」は、執筆者の見解を表明したものです。

文在寅大統領は南北の緊張緩和が保守への優位性につながると見なしていた。北朝鮮はこのような文在寅政権の政治的機会を脅かした。

黄海における公務員射殺事件: 黄海をめぐる韓国の政軍関係

韓国合同参謀本部の発表によると、2020年9月21日に北朝鮮は韓国海洋水産部所属の船員を北方限界線(NLL、韓国は海上境界線と見なす)に近い黄海の北側水域で発見し、これに「銃撃を加え、死体を燃やすという蛮行」を行った。この発表があった24日、韓国大統領府(青瓦台)も「我が国民を銃撃で殺害し、死体を毀損したこと」を「国際法と人道主義」への違反として「強力に糾弾」し「責任者を厳重に処罰しなければならない」と公に非難したのだった。

大統領府と韓国軍の立場は一致していた。しかし翌日以降、大統領府は自国の軍が把握した事実から距離を取り始める。28日の大統領府の説明によれば、韓国から事件の「共同調査」を北朝鮮に提案するほど「事実関係を確定」することが「難しい」のだという。

これは、25日に大統領府が朝鮮労働党中央委員会統一戦線部の送ってきたという文書を代読した後の変化である。北朝鮮は文書を自ら公表せず、これを韓国大統領府に代読させた。結果、文在寅氏の大統領府は自国の軍隊を「証拠」も「取締過程に対する解明の要求もなく」一方的に事件を「蛮行」と決めつけたと糾弾する文章を、何の留保もつけず代読したのである

文在寅政権はこのように自国の軍隊から距離をとったが、朝鮮労働党の文書にはそれを促す誘引と脅迫が含まれている。まず誘因として文書は「芳しくない事件」で文在寅大統領と南側の同朋を失望させたことを「申し訳なく思っている」という金正恩委員長の立場を伝えていた。文在寅政権はこの点をとりあげて関係改善の機会があることを強調し、自国軍への非難を読み上げたのである。

他方で、この文書が南北の「信頼と尊重の関係」をこわしてはならないと述べているのは、北朝鮮の立場に反すればそれがこわれるとの脅迫に他ならない。文書と同日、北朝鮮の『朝鮮中央通信』は「信頼と尊重の関係」が決して毀損されることがないよう「安全対策」を北側がとったにもかかわらず、射殺された船員を捜索する南側艦艇が「わが方の水域」を「侵犯」していると伝えた。これは、新たな「芳しくない事件」の発生を予感させるとも『朝鮮中央通信』は付け加えていたのだった。

政治アセットとしての緊張緩和

南側艦艇が「わが方の水域」を「侵犯」しているという北朝鮮の主張は、NLLをめぐる韓国の政権と軍の相違をさらに刺激する。まず、韓国軍はNLLを海上境界線と見なすが、北朝鮮は現在それを認めていない。「わが方の水域」は決してNLLの北側に限定されていないだろう。そして文在寅政権はNLLを認めさせることよりは、それをめぐる南北の衝突と対峙の解消を選好し、板門店宣言を履行する南北の軍事合意書(2018年9月29日)でNLL周辺に共同漁労水域を設置すると約した。

おそらく共同漁労水域の設置は韓国軍の望むところではない。軍事合意書の署名から間もなく韓国国防部長官はNLLを「海上境界線」と捉えて「そのまま守り尊重し、遵守しなければならない」と表明(2018年10月1日)、共同漁労水域は確定されないままとなっている。北朝鮮による「芳しくない事件」を発生させるオプションの示唆は、文在寅政権に対しそれが嫌ならNLLに関する軍の立場を退かせるよう要求する脅しである。

文在寅政権にとって北朝鮮の要求に従うこととは、もともと軍と相違があった緊張緩和という目標をさらに強く進めることである。それは、親日保守による不正義を消滅させるという文在寅政権の政治課題と重なっており、北朝鮮は同政権に国内目標に従うNLLへの姿勢を促したことになる。文在寅大統領は、共同漁労水域の意義を強調した演説で、そもそもの課題を「親日残滓」の清算であるとしていた。その上で大統領は「親日」保守が「独立運動家」を弾圧して国内の「理念」対立が生まれたと主張し、その対立を「我々の心に引かれた『38度線』」と言い換えて、北朝鮮との緊張緩和と重ね合わせていたのである(2019年3月1日)。

韓国が民主主義を体現できなかった過去の原因は親日勢力による独立運動家への弾圧にあり、その親日が作り出した国内対立の解消のため文在寅政権は北朝鮮との和解に向かう――この言説は、文在寅政権が自らを民主主義のために戦った独立運動家の後裔と定義する意図を反映している。その場合、NLLを境界線として北朝鮮と対峙する韓国軍の姿勢は、親日による国内での不正義の具体的な残滓である。北朝鮮との緊張緩和は文在寅政権にとって、独立運動家が達成すべきだった本来の民族国家の実現能力を示し、親日派、つまりは保守の存在理由を否定する国内闘争上のアセットであった。

この見方と一貫する姿勢として、明らかに文在寅大統領はNLL水域での緊張緩和が可能であるとの認識を意図して広めようとしていた。NLLをめぐる紛争による犠牲者を悼む2020年の「西海守護の日」の演説で、大統領は南北軍事合意の署名後に「NLLにおいて1件の武力衝突も起きていない」と、その成果を強調している(2020年3月27日)。それは事実誤認とまでは言えないが、焦点の置き方は恣意的である。このころまでに北朝鮮は既に、NLLでの武力衝突の危機を惹起する意思を示し、韓国軍は北朝鮮の行動に軍事合意への違反が含まれるとさえ判断していたのだった。

2019年11月23日、北朝鮮は金正恩委員長の指導下で黄海NLL付近の海岸砲射撃を実施し(北側の公式報道は25日)、続いて北側船舶にNLLをこえて南下させ、その翌日の11月28日に日本海側で2発の短距離弾道ミサイルを発射している。韓国軍はこの海岸砲の使用を南北軍事合意への違反と判断していた(『国防日報』2019年11月28日および29日)。

それでも文在寅大統領はNLL周辺で軍事衝突が起きていないという点に人々の目を向けさせ、南北軍事合意で成果を得つつあるとの認識を維持しようとした。この場合、北朝鮮は緊張を惹起することで、安定した南北関係という文在寅大統領の政治アセットを破壊すると脅迫できる。その後の北朝鮮は、南北共同連絡事務所の爆破などにより首脳会談以降の成果を覆すオプションを文在寅政権に突き付け、一定の効果を見た上で公務員射殺事件に至る。以下、それが韓国の行動に与えた影響を説明していきたい。

6月の脅迫が方向付けた韓国の行動

文在寅政権が公務員射殺事件を公表するまでには発生から数日を要している。そして、その公表前だった事件2日後、文在寅大統領は改めて北朝鮮との終戦宣言(休戦状態の朝鮮戦争の終結宣言)を提起し、平和体制(平和協定を土台とする朝鮮半島の国際体制)への道を開くと表明していた(2020年9月23日)。

このとき文在寅大統領があくまで北朝鮮との緊張緩和を提起しようとした経緯は、2020年6月に北朝鮮が韓国への軍事行動をとると脅迫したことにさかのぼる。大統領府の説明によれば、文在寅大統領による「終戦宣言」再提起は、その約2週間前にあった南北首脳による好意的な親書交換(文在寅大統領による2020年9月8日の親書に金正恩国務委員長が12日に返信)を経たものだったという。この親書交換は、6月に北朝鮮が南北共同連絡事務所の破壊などで韓国を脅し、7月初めから8月後半に韓国側が要求を受け入れる姿勢を明確にしてそれほど経ないうちに始まっている。

6月の脅迫で北朝鮮はやはり文在寅政権の国内政治アセットである南北首脳会談の成果を人質としつつ、対北政策で米国との協調から離れることを要求した。同月13日、北朝鮮の金与正・党中央委員会第1副部長はビラ散布など「敵対行為」が是正されなければ、南北共同連絡事務所や南北軍事合意を破壊すると脅したのである。北朝鮮の要求の焦点はすぐに、韓国が米国との対北政策での協調や米韓連合軍の訓練を維持する「事大主義」(大国に従属する悪弊)是正に移っていく。

北朝鮮は実際に南北共同連絡事務所を爆破した翌日、6月17日に破壊の画像配信とあわせて金与正第1副部長の談話を発表し、米韓が対北政策を調整するワーキング・グループを「親米事大」であると非難したのだった。印象的な画像を伴う非難で脅迫の信頼性を担保した上で23日、金正恩委員長は対南軍事行動を「保留」して見せた。

金正恩があまりの緊張の高まりを懸念し軍事行動を保留した、というわけではないだろう。破壊オプションの留保を伝えるのは、それを避けたければ従えと要求する典型的な脅迫である。脅迫の効果は実際に破壊することではなく、それを留保して恐れさせていることに依存する。標的に要求を受け入れさせたければ決定的な攻撃は保留して見せねばならない。「保留」決定の場が異例の党中央軍事委員会「予備会議」であったことも、脅迫の一般的な合理性と矛盾しない。「予備会議」は、軍事行動を決定するかもしれない本会議の予定があると標的たる韓国に考えさせ、当該オプションの保留をいっそう強調する。

そして保留を韓国に知らせしめたのは、6月25日の朝鮮戦争記念日の直前であった。これは、文在寅大統領が対米協力を引き下げる要求に従うか、それに関する立場表明をしやすいタイミングである。この記念日の演説で大統領は「終戦」を提起し、その理由としてまさに前年3月1日の「親日残滓の清算」演説と同一の目標、韓国内の「理念」統合をあげたのだった。大統領演説に基づけば、北朝鮮との対決を回避しなければ、親日保守を消滅させる「理念」統合の機会が失われることになろう。文在寅大統領はこの場で、「わが民族が戦争の痛みを受けているなかでむしろ、戦争特需を享受する国」があったとして、米韓軍を支える軍需基地たる日本の役割への否定的認識も流布したのだった。

それから1週間足らずのうちに、文在寅政権の高官は、米韓ワーキング・グループの機能を弱める主張を公にしていった。文正仁・大統領統一外交安保特別補佐官は、ワーキング・グループを通じて米国が、北朝鮮への協力に関し「制裁対象ではない問題に対しても制動をかける」と批判した(7月1日)。また、同時期、文在寅大統領が統一部長官に指名した李仁栄・「共に民主」党(政権党)前院内代表もワーキング・グループについて、韓国が独自に判断できる部分を議題から切り分ける、つまり対北政策で米国と協調する範囲を狭める意向を強く示唆した(7月6日)。

就任後の李仁栄長官は駐韓米国大使を呼び出して直接、ワーキング・グループに「肯定的評価と否定的評価」があると伝えた上で、韓国側の「否定的評価」を説明し、ワーキング・グループで米国と議論すべきではない「我々が自らすることを区分して推進していく」との意向を表明している(8月18日)。約3週間後、文在寅大統領と金正恩委員長は好意的な書簡を交換し、NLLでの公務員射殺事件がそれに続くことになる。

おわりに

上述した2019年3月1日の大統領演説によれば、NLLでの緊張緩和を含む親日清算の道程の末には、韓国が主導する新しい100年の秩序があるのだという。文在寅政権にとって、北朝鮮との緊張緩和は、独立運動家が実現するはずだった自主的な国家を目指し、その障害としての親日保守の除外を正当化する政治行動である。それは米国から距離をとることとも一貫性がある。金正恩政権による脅迫がこうした方向への文在寅政権のいっそうの傾斜を促した。北朝鮮の威嚇に対して文在寅政権は、韓国軍に対立回避を優先させ、米国からの自立性を高める傾向を強めたのだった。

(12月25日記)