国問研戦略コメント

国問研戦略コメント(2024-04)
ドイツにおける中東紛争―ドイツとイスラエルの関係を中心に

2024-06-11
髙島亜紗子(日本国際問題研究所研究員)
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「国問研戦略コメント」は、日本国際問題研究所の研究員等が執筆し、国際情勢上重要な案件について、コメントや政策と関連付けた分析をわかりやすくタイムリーに発信することを目的としています。

1. ドイツ政府の対応

「イスラエルの安全はドイツにとっての国是(Staatsräson)である」。10月7日にハマスによるテロ行為があった直後にショルツ独首相はこのように発言し、ハマスを糾弾、イスラエルとの連帯を強調した。ブランデンブルク門はイスラエル国旗を映し出し、その素早い対応は印象的だった。その後も同首相は折に触れてStaatsräsonという言葉を繰り返し、イスラエルの自衛権を擁護している1

国際的にも、ハマスが突如イスラエルから民間人を誘拐した際にはその残虐な行為に対する批判が圧倒的だったが、イスラエルがガザへの戦闘行為を開始してからは、徐々にその攻撃が国際法上許容される比例性を超えるのではないかという指摘がなされるようになった。近年、サウジアラビアに代表されるように、イスラエルとの国交樹立や関係強化を模索していたアラブ諸国も次々にその態度を硬化させ、再びアラブ諸国がイスラエルを非難し敵視するという構図が出来上がりつつある。

EU域内でも、イスラエルへの批判を強める国がある一方で、ドイツ政府は一貫してイスラエル政府寄りの立場をとっている。このような動きは、連邦政府だけではなく、州政府にも及んでいる。例えば、ザクセンアンハルト州は2023年12月からイスラエルの自衛権を認めることを市民権獲得の一条件とした2。一貫してイスラエル政府を擁護する立場をとるドイツに対して、徐々に国際社会からの批判も強まっている3

こうしたドイツ政府の対応及びドイツ国内の論調に関して、一部の論者はこれがドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国以来の「伝統」であると指摘する。このような指摘の背景にあるのが、初代連邦共和国首相であるコンラート・アデナウアーが築いたイスラエルとの関係性である4。アデナウアーはStaatsräsonという言葉こそ使用しなかったものの、イスラエルとの関係構築が西ドイツの国際社会復帰にいかに重要であるかを強く自覚していた。アデナウアー主導で進められた、イスラエルに対するドイツの戦後補償を約したルクセンブルク協定が1952年に締結されたことはその証左である。同協定に則り、西ドイツ政府はイスラエルに対し35憶マルク相当の補償を行い、以降、両国は政府レベルでは一貫して良好な関係を築いてきたと理解されている。

2. 歴史的背景

しかしながら、ドイツとイスラエルの国交樹立は1965年まで待たなければならなかった。また、ドイツ連邦共和国首相のイスラエル公式訪問に至っては、1973年まで待つ必要があった。アデナウアー政権がイスラエルとの関係改善の端緒を開いたのは確かだが、それだけでその後の両国の関係性が継続的に良好であったと考えるのは早計である。実際、のちに首相となるヴィリー・ブラントが1960年代に東方政策(Ostpolitik)を推し進めたことに対して、イスラエル側の警戒感は高まった5

一方で、こうしたイスラエルの警戒感を和らげるのに一役買ったのもまた、ブラントのOstpolitikであった。Ostpolitikの一環として1970年にポーランドを訪れたブラントはワルシャワ・ゲットー蜂起記念碑の前で跪いた。ブラントのこの「謝罪」はポーランドとの関係改善、ひいてはソ連との関係改善を企図しており、また、それに成功した例として説明されることが多い。だが一方で、彼が跪いたのがゲットー蜂起の記念碑の前であったことを考えれば、この姿勢がイスラエルにとってもまた好意的なものに映ったことは想像に難くない。この意味で、OstpolitikはNah-Ostpolitik(中近東政策)でもあったのである。このようなユダヤ人に対する贖罪の行為を評価されたブラントは、西ドイツ首相として初めてイスラエルを訪れ、イスラエルのゴルダ・メイア首相との間には強い関係が築かれた6

その後も、ドイツ-イスラエル関係は幾度となく「揺らぎ」を経験した。1983年の連邦議会選挙で初めてドイツ国政に進出した緑の党は、80年代を通じて、イスラエルとの関係をどのように解釈するか党内で激しい議論を闘わせていた。平和運動・反核運動に由来を持つ緑の党では、必然的にイスラエルの入植政策と事実上の核保有に対する批判が高まる。イスラエル側も緑の党が国政に参加したことを警戒しており、84年に緑の党の議員団がイスラエルを訪問し、その後親パレスチナ的なメッセージを出したことに大使館を通じて批判を寄せている7

その後、87年にイスラエル側の招きに応じて再びイスラエルを訪問した緑の党議員団は旅行後に親イスラエル的メッセージを表出することとなり、党内で一部から強い批判を浴びた。「最初の訪問は親パレスチナに偏り過ぎ、2回目の訪問は親イスラエルに偏り過ぎた」と評されたこの党内の議論は、原理派(Fundi)と現実派(Realo)の争いと見ることができる8。緑の党内におけるFundiとRealoの争いは、同党が政権を担当する「現実的な」政党になるか否かをめぐるものであり、イスラエル問題も対象となっていた。結局、80年代を通じて徐々に現実派が優勢になることで、緑の党は90年代に政権与党にまで上り詰めることとなる。

3. 市民感情

このように過去を概観すると、歴史的にドイツ国内に親パレスチナ的な言説が見られなかったわけではない。事実、最新の世論調査では70%近くがイスラエルの行動を不当であると回答している9。一方で、「ドイツの政権与党として」「ドイツ連邦共和国首相として」の意見表明が強く親イスラエル的であることもすでに見てきた通りだが、これにはまた違った理由も関係していると思われる。

昨年10月7日のハマスによるテロ以来、ドイツ国内でも反ユダヤ主義的事件が増加している。反ユダヤ主義の犯罪を調査する団体によると、2023年10月7日から11月9日にかけて計994件、一日平均で29件の反ユダヤ主義的犯罪が起こった10。これは2022年の平均犯罪件数から320%の増加を意味する。また、10月7日の事件発生前からも、近年の反ユダヤ主義による犯罪件数の増加が報道されていた11。極右政党であるAfD(ドイツのための選択肢)はこうした動きを、ドイツで増加しているアラブ系住民と結びつけて議論する。しかしドイツにおける反ユダヤ主義的言説はアラブ系住民の増加前から存在しており、彼らの主張は曲解に近い12。ドイツにおけるアラブ系住民の数は1995年ごろから増加しはじめ、2015年以降にその数を一層増やしている13。一方、反ユダヤ主義的犯罪も確かに2016年頃から微増するものの、決定的に増加したのは2021年であり、有識者はむしろコロナや反ワクチン運動など、その他の社会的言説との結びつきを指摘する14

また、2024年1月には、AfD党員が中心となって昨年11月に行われた会議で、ドイツ以外にルーツを持つ人間を「再移民(Remigration)」させるべきだという趣旨の議論をしていたことがわかり、改めてAfDに対する強い批判が国内で噴出し、多数のデモが発生した15。同党の会議が行われていたのはベルリンにほど近いポツダム市郊外のゲストハウスであり、奇しくも、ユダヤ人の大量虐殺を政治的に決定したと言われる1942年のヴァンゼー会議が行われた別荘からもそれほど遠くなかったことから、当然この二つを結びつけてAfDを批判する言説も聞かれた16。5月には、EU議会選に筆頭候補として出馬していたマクシミリアン・クラーが「SS(ナチス親衛隊)の構成者全員が犯罪者とは言い切れない」と発言し、再び国内外で大きなスキャンダルとなっている17。国内で改めて排外主義的な言説が出現することからも、政権が反ユダヤ主義的言説に現在も細心の注意を払っている理由が理解できるだろう。

4. 終わりに:過去と未来

ドイツ連邦共和国が建国以来常にイスラエルとの二国間関係に配慮してきたのは事実である。それは、アデナウアーが表現したように、ドイツが国際社会で立ち直るために必要な対応であった。社会的には左派運動が活発化した時期も、政権与党は常にイスラエルとの特別な関係を重視し、過去の反省から両国の関係を良いものにしようと腐心してきた。そもそも、国家が過去の罪を引き受けることは、決して自国民から好意的に見られることではない。ホロコーストという「人道に対する罪」に対する謝罪を込めたブラントのワルシャワでの跪きであっても、当時の西ドイツ国内では反対を表明する意見の方が多かった。雑誌Spiegelが当時行った調査では、実に48%の回答者がブラントの謝罪を「過剰」だと評価している18。それにもかかわらず謝罪の意図を示し続けることで、ドイツ政府はイスラエルとの関係改善の意思を示し、もってドイツ連邦共和国の国際社会における存在感を確保してきたのである。国際政治における感情を分析したトッド・ホール英オックスフォード大教授は、政治におけるレトリックは常に公的レトリックが社会的レトリックに先行すると主張する19。ドイツの過去の反省についても、イスラエルとの関係改善についても、それは社会からの要請で起こったことではなく、政治的リーダーシップのもとで行われてきた。

10月7日の事件が非人道的であることは論を待たない。人質の中にはドイツ人やドイツ系の人間もおり、そうした人々の詳細な報道は多くの市民感情を掻き立てた。ドイツ政府の言う通り、イスラエルには国際法上の権利として自衛権がある。一方で、現在イスラエルがガザに対して行っている攻撃が、やはり国際法の観点から見てその正当性に疑問が提起されているのは確かである。本来この二つの議論は分けて行われるべきであり、混同されないよう注意する必要がある。国際社会において「正しい」批判をするには、「正しくない」批判と一線を画していることが十分認識されていなければならない。この意味で、ドイツ国内においても「正しくない」イスラエル批判が存在すれば、「正しい批判」を行うことが困難になるだろう。その結果として、ますます政権がイスラエル擁護の姿勢に傾斜しているように見えることになりかねない。ここでいう「正しくない」批判とは、ドイツ社会に根強く残る反ユダヤ主義的な言説であり、広がりつつある排外主義的言説に他ならない。こうした観点から、反ユダヤ主義なり排外主義の存在は、ガザの人道危機やイスラエルの行き過ぎた行動を非難する立場にとっても、望ましくない影響をもたらしていると見られる。ゆえに、ドイツ国内の最大の敵とは反ユダヤ主義の言説であり、これを適切に切り分けて議論する必要がある。ドイツが国際的に正当な立場を主張できるかはそれにかかっており、議論の行方を注視する必要がある。




3論壇においても、イスラエルに批判的な論調をとる著名人の講演が主催者の意向で相次いでキャンセルされた。とりわけ、パレスチナ人民救済のための署名活動に加わったことを原因として、アメリカの哲学者ナンシー・フレイザーがケルン大学から客員教授就任を断られたことは学術会で大きな衝撃を呼んだ。https://jacobin.com/2024/04/nancy-fraser-germany-palestine-letter 

5 ブラントの東方政策は、それまでの西側重視のアデナウアー外交と一線を画す外交姿勢と受け止められた。おりしも1960年からドイツ国内でも左派運動が活性化しており、こうした変化が、ドイツが過度に「東川陣営」に近づいているのではないかという脅威をイスラエル政府に抱かせた。以下参照。髙島亜紗子「謝罪の形成―第二次大戦後の日本とドイツを比較して(The Narrative of Apology: Japan and Germany after the World War II)」『国際政治』第187号、114-130頁、2017年3月。

7 Archiv Grünes Gedächnis, B. II. 1, Nr 4110. Palestine-Konflikte, 1987-88, 18-3

8 同上

12 反ユダヤ主義的主張は冷戦期にも存在した。とりわけ1970年代の左派グループによる反ユダヤ主義はテロ事件にまで発展した。前掲髙島(2017)を参照。

13 2015年のシリア難民危機で多くの難民がドイツをその移住先に選んだことで、アラブ系住民の数が更に増加したと考えられている。https://de.statista.com/statistik/daten/studie/72321/umfrage/entwicklung-der-anzahl-der-muslime-in-deutschland-seit-1945/

14 コロナが流行した原因をユダヤ民族と結びつける陰謀論などが指摘されている。https://mediendienst-integration.de/artikel/immer-mehr-antisemitische-straftaten.html

17 この発言によってクラーはAfDの役職を辞任。EU議会選挙キャンペーンからの離脱を命じられ、AfDはEU議会の会派「アイデンティティと民主主義(ID)」から除名された。 https://www.ft.com/content/adb37d25-f133-4c46-993d-e9c2dcecf3a7

18 Thomas U. Berger, (2012)War, Guilt, and World Politics after World War II . Cambridge University Press, p.63.

19 Hall, Todd H.. (2015). Emotional Diplomacy : official emotion on the international stage. New York: Cornell University.