コラム

コソボ独立宣言とその影響

2008-03-13
小窪千早(研究員)
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2008年2月17日、セルビア共和国のコソボ自治州が独立を宣言した。国際社会は新生「コソボ共和国」をめぐって、承認する国と承認に否定的な国とに分かれている。アメリカは早速コソボを承認し、EUでもイギリス、フランス、ドイツ、イタリアなど主要国を含む多くの国がコソボを承認している。日本も承認の方向である。承認に消極的な国も多いため国連への加盟は当面難しいと思われるが、事実上米欧諸国などの多くの主要国には迎え入れられる形となりそうである。

一方で、セルビアはもちろん、ロシアは独立反対の姿勢を鮮明にしており、また、国内に少数民族問題を抱えるグルジアや、EUの中でも国内に民族問題を抱えるキプロス、スペイン、ルーマニアなどは承認に反対の姿勢を見せている。中国もまた一方的な独立宣言への懸念を表明している。世界の多くの国は承認の是非をめぐって意見を表明しているが、国内に民族問題を抱える国の多くは、コソボの承認に対し反対ないし消極的な意見を示しており、コソボの独立宣言は図らずも世界における民族問題の存在を改めて浮き彫りにする結果となった。

冷戦終結後も多くの国が新たに独立を果たしたが、コソボのケースは、当事者間の合意のない一方的な独立宣言であり、それが国際社会の相当部分に受け入れられたという非常に特異な例である。

■ コソボ問題の経緯とその特異性

コソボの人口構成は、アルバニア系住民が約9割と多数を占め、セルビア系は1割弱、残りをボシュニャク人やロマ人などその他が占める。コソボは旧ユーゴスラビアの時代から、ハンガリー系やスロバキア系住民のいるヴォイヴォディナ自治州と並んで、連邦内のセルビア共和国の中の自治州のひとつを構成していた。

冷戦終結後、旧ユーゴスラビアの解体が始まるにつれて、コソボのアルバニア系住民は、コソボの独立あるいはユーゴスラビア内の共和国昇格を求めて運動を強めた。一方、セルビア政府は警戒を強めてコソボの自治権を剥奪していった。両者の対立は1998年には武力衝突にまで激化し、ミロシェビッチ大統領は強硬策に出て、軍隊を現地に派遣してアルバニア系住民に対する厳しい弾圧を行った。これに対し国際社会は人道的介入を行い、1999年にNATOがユーゴへの空爆作戦を展開し、ミロシェビッチ政権は事実上コソボからの撤退を余儀なくされた。

その後、コソボは国連安保理決議1244に基づき、NATOが主導するKFORがコソボでの駐留を続けて治安維持にあたり、UNMIK(国連コソボ暫定行政ミッション)が現地での施政権を担うという状況ができた。KFORはNATOの指揮権の下に35カ国約17,000人の軍隊が展開している。UNMIKは現地の暫定自治政府(PISG)に少しずつ施政権を移譲している。こうしてコソボは、法的にセルビアの主権から離れたわけではないが、事実上ベオグラードの統治から切り離されて国連とNATOの支配下で現地の自治政府が機能するという、国際的にも例のない変則的な状態が続いてきた。もちろんこれはあくまでも暫定的な措置であったが、コソボの最終的な地位については、当事者間の合意が見られないまま、変則的な状態が今日まで9年近く続いた。

UNMIKは、国際的地位を決める前にまずコソボの地に人権や法の支配などの民主的諸制度の一定の水準を確立しようという「地位の前に水準(standards before status)」という原則を取り、域内の諸制度の改善に努力が向けられる一方、地位の帰属の問題は後回しにしてきた。その後早期独立を求めるアルバニア系住民の不満などを受けて、2004年以降、国際社会とセルビア、コソボ両当事者の間でコソボの地位をめぐる交渉が開始された。アハティサーリ国連特使(元フィンランド大統領)による仲介が行われ、その後コンタクト・グループ(米・英・仏・独・伊・露)やトロイカ体制(米・EU・露)が交渉に当たり、コソボの最終的地位に関する案が出されたが、絶対に独立を果たしたいコソボと独立だけは絶対に回避したいセルビアの間では結局意見が折り合わず、2008年2月、コソボによる今回の独立宣言に至った。

■ コソボ独立宣言の波紋

コソボの独立宣言では、コソボは民主的で世俗的で多民族の国家となると謳われており、セルビア人など少数派の人権にも配慮するとし、アルバニア民族主義を想起させる要素は意識的に抑えてある。民族を同じくするアルバニアとの合邦もコソボとアルバニアの双方から明確に否定されている。コソボの大多数を占めるアルバニア系住民にとって、ミロシェビッチによる抑圧の記憶は生々しく残っており、いまさらベオグラードの支配下に戻ることは彼らにとって到底受け入れ難く、いまや独立以外の道は考えていない。一方、セルビア側は、そもそも国連安保理決議1244はコソボがセルビア領内の自治州であることが明記されており、当事者間の合意のない一方的な独立は正当な根拠を欠くと主張する。またセルビア人にとってコソボは中世セルビア王国の首都がおかれた民族揺籃の地であり、この地がセルビアから切り離されるのは忍び難いという民族感情がある。

コソボの独立宣言は、ある意味では冷戦後の旧ユーゴスラビアの解体過程の最終段階を画するものと言えよう(ヴォイヴォディナ自治州があるが、独立運動に至る可能性は低い)。旧ユーゴスラビアの中で主導的な立場にあったセルビアにとって、ユーゴスラビアの解体はバルカン半島におけるセルビアの影響力の減少を意味するものであり、また国際世論の中でセルビアがいつも悪者のように報じられることに対しセルビアの不満は根強い。またセルビアの後ろ盾であったロシアにとっても、セルビアの影響力の後退はロシアのバルカン半島における影響力の後退でもある。エネルギー供給国としての強みや国連安保理での拒否権など様々なカードを行使して、ロシアは引き続きこの問題で影響力を行使しようとするであろう。

■ EUから見たコソボと西バルカン地域

EUもまた西バルカン地域への関与を積極的に進めており、EUは2006年から、欧州安全保障防衛政策(ESDP)の枠組みで「EUプランニングチーム・コソボ(EUPT Kosovo)」という作戦を展開し、顧問団を現地に派遣して法律の執行機関の支援などを行っている。さらに、コソボの独立宣言を受けて、EUは「EU法の支配ミッション・コソボ(EULEX Kosovo)」という新たな警察・文民ミッションを展開し、警察や文民スタッフや法律の専門家など約2,000人が現地に派遣されることになっている。これはEUがこれまでにグルジアやイラクで行ってきた「EU法の支配ミッション」の一環であるが、これまでのミッションとは違って、単なる支援だけでなく警察業務や行政の一部を担い、最終的にはUNMIKを引き継いでEUがコソボの統治に実際に関わることになっている。

このようにEUがコソボに積極的な関与を行うのは、EUがこの地域の安定に大きな関心を持っているからであるが、そのことはEUの拡大プロセスがいよいよ西バルカン地域に及びつつあるという状況と無縁ではない。かつての旧ユーゴスラビアのうち、スロベニアはEU加盟を2004年に果たし、クロアチアとマケドニアが現在EUの加盟候補国となっている。また残りのボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロそしてコソボのいずれもEU加盟を希望する意思を表明している。コソボの独立問題についても、EUは加盟交渉の前倒しなどを材料にセルビアの譲歩を引き出したい構えである。セルビアでも、コソボ独立への対応やEU加盟に対する連立与党内の見解の相違からコシュトニツァ首相が辞任の意向を示し、5月に総選挙が行われる見通しである。セルビアの新政権が一定の交渉に応じるか、あくまでも独立反対の姿勢を貫くかによっても、コソボの事案は大きく変わってくるであろう。

EUは、西バルカン諸国をEUの内側に取り込むことによって地域の安定化を図ろうと考えてきたが、拡大プロセスの進展の中でその考えが現在少しずつ実行段階に入りつつある。コソボへの積極的関与は、西バルカン地域へのEUの影響力をさらに強めることになる。NATOが駐留しているため武力衝突のような危険性はないが、コソボの独立をめぐる西バルカン地域の動向は、当面EUとロシアが外交的影響力を行使しあう静かな角逐の場となるであろう。