コラム

米国大統領候補者間テレビ討論会の誕生 [1]

2012-10-15
松本明日香(日本国際問題研究所研究員)
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近年米国大統領選挙ごとに大統領候補者間のテレビ討論会(以下、大統領討論会)が行われている。今年もまた党大会後、投票前に、大統領候補者間討論会3回(2012年10月3日、10月16日、10月22日)、副大統領候補者討論会1回(2012年10月11日)が実施・予定されている (1)。この大統領討論会はなぜ誕生し、どのように根付いていったのだろうか。その背景を紐解くことで、討論会をこれまでと少し違った視点で眺める一助となれば幸いである。

1 大統領候補者間テレビ討論会の開始、1960年
大統領討論会はメディアと政治家の利害が一致したところに生まれた。しかし、その一致なるものは常に存在するわけではない。実際に米国大統領選挙戦を舞台とするそれが定期的なイベントとして根付くまでは、かなりの時間がかかった。

まず1950年代、テレビが普及するにつれて、テレビでニュースキャスターたちが活躍しはじめた。たとえば事象の底流を明らかにしようと試みる『シー・イット・ナウ』というテレビシリーズで1954年3月9日にはマロー(Edward Murrow)らは赤狩りを行ったマッカーシー上院議員(Joseph McCarthy)の公聴会をテレビ放映し、一大旋風を引き起こした。やがて同年12月に議会上院はマッカーシー弾劾の議決を通過させた (2)

一方で政治家も、長年ラジオやテレビといったメディアを活用しようとしてきた。ニクソン副大統領は、副大統領就任直後からメディアを活用してきた。ニクソン(Richard Nixon)は1952年にラジオにおいて「チェッカーズ・スピーチ」なる選挙資金援助についての弁明を行ったし、1957年にはフルシチョフ(Nikita Khrushchev)首相はCBSテレビの『フェイス・ザ・ネーション』シリーズへ出演して世界中をあっと言わせた (3)

しかしながら、テレビ業界がさらに拡大してコマーシャルを伴った商業化が進み、政治の世界においてもいわゆる冷戦が続く中で、政治問題を扱う報道番組は次第に後退していった。特にそのテレビ商業化の転機としては1955年6月7日の夜、新クイズ番組『6万4千ドルの質問』がひとつの大きなフィーバーを巻き起こしたことが挙げられる (4)。回答者を何週間も継続して参加させ、前代未聞の賞金を現金で支払うというものであった。このシリーズはトレンディックス調査によると49.6%もの視聴率を上げ、視聴者シェアも84.8%と跳ね上がった。これに追随し、一攫千金のアメリカンドリームを明確に体現するクイズショーが大ヒットし次々に同様の番組が作られていった。

メディアでの政治報道がやや下火であったさなかに、外交問題への米国民の関心を喚起する事件が起きた。1957年10月4日にソ連が打ち上げた人類初の人工衛星スプートニクである。このニュースは全米を駆け巡り、米国民にスプートニックショックと呼ばれる大きな衝撃を与えた。これをきっかけに、米国の技術、教育、軍事、そして政治に関して、国民の不安と不信が巻き起こされた。

国民の外交問題への関心の高まりにこたえるため、外交的なニュースもテレビ上で多く流されるようになっていった。1959年7月にはニクソンはモスクワで開催されたアメリカ博覧会のためソビエト連邦にわたり、1959年7月24日にはソ連のフルシチョフ首相と丁々発止の議論を交わし、その模様がテレビ放映された。この議論は「キッチン・ディベート」と呼ばれ、ニクソンは一躍その名を高めることとなった。

しかしながら、テレビの普及と商業化、メディアを通しての政治活動が盛んになる中で、テレビ放送を管理する連邦通信委員会の腐敗とテレビ番組のやらせ、メディア上で明らかになってきた政治家の嘘が問題となっていった。まずテレビ界に、徐々に陰りが見えてきていた。1958年8月のクイズ番組『トウェンティワン』で優勝したステンプル(Herbert Stempel)がこの番組が「八百長」であると暴露した。このときもっとも有名な『トウェンティワン』優勝者であるドーレン(Charles Van Doren)は番組には不正はないと証言していたが、突如失踪したのちに出頭して、1959年秋には深い悔恨の声明を出した。彼によると、担当プロデューサーのフリードマン(Albert Freedman)は、「このプログラムはただの娯楽であって、出場者に助力を与えるのはあたりまえのことで、むしろショーの一部と言ってもいい。」と言い、さらに「全国放送のテレビに出ることで私がこの国の知的生活に奉仕することになる、つまり精神的活動にたいする一般の尊敬を増進して、教師または教育全体に大きな貢献をする」と強調したという。この告発は『六万四千ドルの質問』など他の番組にも波及した (5)

1959年、テレビ局はクイズショー詐欺に関して立法監視委員会で不正操作を認めることとなった。一方で、その委員会調査官をつとめたグッドウィン(Richard Goodwin)は、直後からケネディの選挙陣営でスピーチライターであったソレンセン(Theodore C. Sorensen)のアシスタント役をつとめることとなった。皮肉なことに、この一連の出来事に関して、テレビ・ディレクターのフリードマン(Albert Freedman)は、「重要な国家的人物がおおむねゴースト・ライターを雇って演説や時には著書まで代筆をさせることを知って、世人ははたしてショックを受けるでしょうか」と呟いている (6)

NBCテレビでの不正も徐々に槍玉に挙げられ、取り締まりも厳しくなり、浄化政策が取られるようになっていった。クイズショーの後始末として、1959年12月には、司法長官がアイゼンハワー大統領(Dwight Eisenhower)に詐欺的・虚偽的番組を取り締まる立法措置の必要を説く報告書を提出し、通信法の修正条項で処罰可能にすることを求めたが、FCC議長ドーファー(John Doerfer)は規制に乗り出ず、これをきっかけにアイゼンハワーに辞任させられた (7)。アイゼンハワーは、1919年のプロ野球の八百長試合を例に挙げながら、「八百長クイズは、アメリカ国民に対する侮辱だ」と述べた (8)。その後1960年初頭には、ネットワーク業界が業界自主規制として番組基準を強化していった。

アイゼンハワーは八百長クイズを批判したものの、今度は政治的な隠蔽工作の暴露に見舞われ、テレビでのアイゼンハワー政権の閣僚らのやりとりが国民の不信感を高めることとなった。1960年5月1日U2撃墜事件発生が発生し、当初米国国務省はテレビでU2は気象観測機であると弁明した。しかしながら、1960年5月7日にはU2撃墜事件に関して、フルシチョフがテレビ上で飛行士の生存を報告、米国弁明の偽りを糾弾した。アイゼンハワーは国務省に飛行機はスパイ機であるが無許可である声明を出させたが、逆に1960年5月9日に新聞各社はアイゼンハワー政権がスパイ機であったと認める声明を出したと報じた上に、ニクソンは飛行が継続されるとテレビで答えた (9)。アイゼンハワー政権はテレビや新聞を通して国民の前で嘘の弁明と混乱した対応という醜態を晒してしまったのだった。

メディア側も政治家側も誠実さを欠いた問題を抱える中、メディアにとっては公正で国民側に立っているイメージを作り出せ、政治家にとっては真摯なイメージを作り出せ、さらに両者が視聴率と有権者の獲得を図りえるプログラムとして大統領討論会を成立させるにいたった。特に副大統領としてラジオ・テレビスピーチで名をあげていたニクソンは露出を多くする必要がないにも関わらず承諾してしまった (10)。1960年4月にはテレビ局が二大政党大統領候補者にテレビ出演をオファーしていたが、1960年8月には両候補者同士の合同声明と議会の要請により、FCC(The Federal Communications Commission連邦通信委員会)通信法315項「中立の原則(fairness doctrine)」を一時棚上げすることで、二大政党間のテレビ討論会が可能になり、ついに1960年9月大統領討論会は実施されることとなった。このように、大統領討論会の誕生には、連日のようにメディアを飾った政治的失態と、テレビ放送自体のスキャンダルがひとつの契機となっていたのだった (11)

【米国大統領候補者間テレビ討論会の誕生[2]へ続く】


(1) The Commission on Presidential Debates (CPD) http://www.debates.org/

(2) Fred W. Friendly, Due to Circumstances beyond Our Control (New York: Random House, 1967), 59-60; MBC “Murrow, Edward R.” http://www.museum.tv/eotvsection.php?entrycode=murrowedwar ; Erik Barnouw, Image Empire: From 1953. History of Broadcasting in the United States (New York: Oxford University Press, 1970), 45-56; エリック・バーナウ『映像の帝国―アメリカ・テレビ現代史』岩崎昶訳、 (サイマル出版、1973)、45-56。

(3) Barnouw, Image Empire: From 1953, 116; バーナウ、前掲書、86。

(4) Barnouw, op. cit., 56-58; バーナウ、前掲書、45-56; Erik Barnouw, The Golden Web: a history of Broadcasting in the United States, v. ll - From 1933 to 1953 (New York: Oxford University Press, 1968), 161-2, 287.

(5) リチャード・グッドウィン『クイズ・ショウ:60年代アメリカ衝撃の事実』有沢善樹他訳(扶桑社、1995)、119-122。

(6) New York Times, October 27, 1959; Barnouw, op. cit., 123-5; バーナウ、前掲書、96; 有馬哲夫、『テレビの夢から覚めるまで-アメリカ1950年代テレビ文化社会史』(国文社、1997), 187。

(7) Barnouw, op. cit., 126-129; バーナウ、前掲書、92-97。

(8) Ibid., 126; 前掲書、92-93。

(9) Ibid., 134-140; 前掲書、107-110; Stephen E. Ambrose, Eisenhower: Soldier and President (New York: Simon&Schuster Paperback, 1990), 508-512.

(10) Richard Nixon, The Memories of Richard Nixon (New York: Simon & Schuster Building, 1990[1978]), 217-218.

(11) George Farah, No debate: How the Republican and Democratic Parties Secretly Control the Presidential Debate (New York: Seven Stories Press, 2004), 4-5.

*当コラムは博士(政治学)学位請求論文(松本明日香『公開討論会と外交機密の相克―1960、76年米国大統領候補者テレビ討論会を事例として―』)の背景説明の一部を加筆修正したものである。