国問研戦略コメント

国問研戦略コメント(2021-09)
「ふたつの基軸国家」―バイデン政権の東南アジア政策を考える―

2021-11-18
菊池努(青山学院大学教授/日本国際問題研究所上席客員研究員)
  • twitter
  • Facebook

「国問研戦略コメント」は、日本国際問題研究所の研究員等が執筆し、国際情勢上重要な案件について、コメントや政策と関連付けた分析をわかりやすくタイムリーに発信することを目的としています。

1、はじめに

東南アジア諸国は太平洋とインド洋を結ぶ戦略的要衝に位置しており、彼らの対外姿勢が今後のインド太平洋の国際関係の在り方に大きな影響を及ぼす。実際、近年インド太平洋の主要国が推進している「インド太平洋戦略」の焦点の一つは東南アジアにある。

バイデン政権のインド太平洋政策においても東南アジアは重要な戦略的位置を占めており、インド太平洋政策の立案に従事する高官たちはいずれもその重要性を強調している。

しかし、政権発足後のおよそ半年間、バイデン政権の主要な外交の対象は北東アジアやNATOの同盟国、G7, QUAD(日米豪印)であり、東南アジアへの米政府の関心は希薄であるかにみられた。東南アジア諸国の一部からは「アメリカは東南アジアを軽視している」との不満もあがっていた。

そうした中、7月から8月にかけ、オースティン国防長官がシンガポール、ベトナム、フィリピンを訪問し、さらにハリス副大統領もシンガポールとベトナムを訪問するなど、政府高官による東南アジア訪問が相次いでいる。わずかな間隔を置いて国防長官と副大統領がシンガポールとベトナムという同一の国を訪問したのは異例である。

ASEAN(東南アジア諸国連合)の「盟主」インドネシアでコロナ感染が急拡大しているために二人の高官が訪問できなかったとの説があるが、おそらくそうではあるまい。アメリカは当初よりこの2ヵ国に照準をあて、高官を訪問させたと考えるべきであろう。

この両国はアメリカの対東南アジア政策の中で特に重視されている国家であるということである。2021年3月に米大統領府が公表した「暫定版国家安全保障戦略指針(Interim National Security Strategy Guidance)」においても、同盟国との関係強化という政権の方針の一方で、フィリピンやタイなどの古くからのアメリカの同盟国には言及がなかった。アメリカが連携強化の相手として具体的な国名を挙げたのは、東南アジアにおいてはシンガポールとベトナムの両国のみである。1

アメリカはこの二つの国のどこに価値を見出しているのだろうか。この訪問国の選択から、アメリカがインド太平洋戦略のなかで推進する東南アジア政策の輪郭と期待する東南アジア諸国像を見ることができるだろうか。

2、ナショナリズムと外交術:敵対は避けるが不当な行動には断固戦う

アメリカ政府がシンガポールとベトナムを重視する理由は、両国がアメリカにも中国にも傾斜することなく(「米中いずれも選択しない」)、いずれの国とも比較的安定した関係を維持しつつ、自国の国益を毀損する両国の不当な行動には毅然と対峙する対外姿勢を堅持してきたことにあろう。

両国には強靭なナショナリズムに支えられた、大国からの圧力に屈しない強靭な対外姿勢と、そうした大国との共存を同時に進める巧みな外交術がある。また、それを支える国内政治の安定がある。

両国はアジアの力の均衡を維持する上でのアメリカの役割の重要性を認識し、それを維持すべく尽力してきた。しかし同時に、国家の安全保障を他国に依存することなく、独自の国防力の強化に努めてきた。自主、自立が両国の基本的な対外政策を貫く一貫した原則である。

近年の中国の高圧的、攻撃的な対外行動に対して両国は東南アジア中で国際社会のルールに基づく原則的立場を堅持し、中国に異を唱えてきた。

ただ、両国と中国との間の国力の格差は歴然としており、両国が今後もこれまでのような対外政策を進められるか判然としない。両国を支援し、国家の強靭性を高め、中国の不当な行動を拒否できる体制を整える必要がある。

アメリカの東南アジア政策の重点は、東南アジア諸国をアメリカが主導する対中戦略に巻き込み、その一翼を担わせるということよりも、彼らが中国の圧倒的な力に対峙できるよう、東南アジア諸国の国家の強靭性を強化する施策を実行してゆくことであろう。大国の圧力に屈しない、自主、自立の国家群を東南アジアに創出することである。

別の言葉で言えば、米中いずれにも与しないが、主権や紛争の平和的可決の原則、国際ルールの順守などを国際関係の基本原則として堅持する国家群を東南アジアに創出することである。発展途上の比較的規模の小さな国からなる東南アジアに、大国政治に翻弄されない、自立し強靭な新たな国際関係の主体を形成することである。

インド太平洋の国際関係の制度的枠組み(アーキテクチャー)における「ASEANの中心性(ASEAN's Centrality)」を支持するとのアメリカの姿勢の前提にあるのは、そうした東南アジア像であろう。

そうした東南アジアはアメリカ単独で創出できるものではなく、同盟国や友好国の支援が不可欠である。アメリカはこの作業を、日本やインド、オーストラリア、そして欧州諸国などの同盟国や友好国と協力して推進しようとうことであろう。東南アジア諸国の強靭性を強化するための、経済やインフラ建設から安保協力に至る多様な支援の枠組みを構築し、それらを相互に調整することでASEAN全体の強靭性高めることが意図されている。バイデン政権が推進する「統合抑止(Integrated Deterrence)」戦略の東南アジアでの狙いはそこにあるとみるべきであろう。

ところで、ベトナムとシンガポールの両国はこれまで米中双方との関係をどのように進めてきたのであろうか。初めにシンガポールの歴史を振り返りたい。

シンガポールとアメリカの間では政治経済はもとより、軍事的にも密接な関係が形成されてきた。アメリカはシンガポールへの最大の投資国である。シンガポールはアジアの安定のためにはこの地域へのアメリカの政治、軍事、経済的な関与が不可欠であると公然と唱えてきた数少ない東南アジアの国のひとつである。 

実際シンガポールは、冷戦終結後にフィリピンの米軍基地の閉鎖を余儀なくされたアメリカにシンガポールの施設を提供するなど、アメリカの東南アジアへの継続的関与を促してきた。以来アメリカは空母打撃群の寄港地として、また近年では、南シナ海を監視する米軍のP-8哨戒機や沿岸戦闘艦の基地としてシンガポールの施設を使用している。シンガポールは中国からの反発に怯まず、粛々と対米安保関係を進めている。

シンガポールはアメリカとの経済関係も重視してきた。アメリカはシンガポールが自由貿易協定を最初に結んだ国でもある。シンガポールはアメリカの参加するTPP(太平洋経済パートナーシップ協定)を強く支持してきた国でもある。

他方で、シンガポールは中国とも緊密な関係を築いている。中国はシンガポールの最大の貿易相手国であり、シンガポールは中国の最大の投資国である。習近平国家主席の旗艦事業である「一帯一路」にもシンガポールは当初より参加している。シンガポールは中国を含む東アジアの経済連携(RCEP)の早期締結を熱心に働きかけてきた。最近、中国がTPP-11(CPTPP)への加盟を正式に申請したが、シンガポールは中国の参加を支持しているといわれる。

そうした緊密な関係の一方で、シンガポールは自国の国益を守るために米中両国と対峙することも辞さない。中国との関係を見てみよう。中国の反発にもかかわらず、シンガポールは1970年代からシンガポール軍の訓練を台湾で実施している。1990年代初めの中国との国交樹立の際に中国から台湾での訓練の中止を求められたが、シンガポールは中国に譲歩しなかった。2また、すでに述べたように、シンガポールは中国の反発にもかかわらず米軍の機動的な運用を支える施設を提供し続けている。

シンガポールは南シナ海紛争の当事国ではないが、国際的な通商国家として、同海域で航行の自由の原則が堅持されることは死活的に重要である。シンガポールは、南シナ海問題を解決する最も重要な原則として多国間主義と国際法の順守を掲げ、ASEANを始めとする様々な地域、国際組織の場においてその意義を主張してきた。

UNCLOS(国連海洋法条約)は海洋問題の秩序ある解決のためにシンガポールが一貫して尊重すべしと強調してきた国際ルールである。2016年のUNCLOSの仲裁裁判所の判断(フィリピン政府が中国の主張の不当性を訴えたもので、判決では「九段線」など中国の主張のほぼすべてが否定された)を遵守するようASEAN関連の会議や非同盟諸国の国際会議の場などでシンガポールは繰り返し求めてきた。

そうしたシンガポールの姿勢は中国の厳しい反発を呼ぶが、シンガポールはこれに怯むことはなかった。(中国の不満を象徴するのが2010年のARF(ASEAN地域フォーラム)閣僚会議での楊潔篪(ようけつち)中国外相の発言である。南シナ海問題での中国批判に業を煮やした楊外相は、シンガポールの外相に向かって「おまえたちは小国だ、中国は大国だ。それが現実だ」)と言い放ったといわれる。この発言にはシンガポール国内で強い反発があった。3

国益や原理原則を巡って時に中国と対立するシンガポールはしかし、中国との決定的な対立を避ける措置も講じている。中国は巨大な経済的利益の機会を今後も提供してくれるであろうし、なによりも大国中国は自国のすぐ近くに存在する地政学的現実である。敵対を避け、共存の道を模索する以外にない。

ベトナムはどうか。ベトナムとアメリカはかつて激しく戦った関係である。戦争の記憶は両国関係の中で依然として鮮明である。政治体制の格差も歴然としている。それらは両国関係の改善を妨げてきた。

しかし近年は、両国は経済的にも政治的にも関係を深めている。軍事安全保障の分野での米越関係の緊密化も顕著である。2016年のオバマ大統領の訪越時にアメリカはベトナムへの武器輸出の全面解禁を表明するが、それ以降、ベトナムへの武器の輸出も増加している。また、米越両国軍隊の共同演習やアメリカの空母打撃群のダナン港への寄港など、両国の防衛協力も深化している。

米越間の経済関係も拡大している。米越間の貿易不均衡(越の対米黒字の増大)は両国関係で打開すべき重要な課題であるが、アメリカはアジアのサプライ・チェーンの見直し(対中依存の削減)をするなかで、代替の投資先をしてのベトナムの重要性を再認識しており、米越経済関係の今後の拡大が期待されている。

アメリカとの関係を拡大しつつもベトナムは、対外方針として「3つのノー(Three Nos)」を掲げている。軍事同盟を結ばない、ある国に対抗するために別の国と手を結ぶことはしない、ベトナム国内に外国の基地を置かせない、の3原則である。

1980年代の中ごろに、中国との関係改善のためにベトナムとの同盟関係をソ連が一方的に破棄したという苦い経験は、目前の脅威に対抗するために別の大国と連携することのリスクをベトナムに教えた。アメリカとの関係を拡大しつつも一定の制約をベトナムは課している。「米越同盟」はありえない。

隣国中国との関係はベトナムの対外関係の核心である。歴史的にベトナムは中国と深く結びついており、中国との安定した関係を維持することがベトナムの最も重要な課題である。実際、ベトナムと中国は相互の関係を「包括的戦略パートナーシップ」と規定している。これは、「包括的パートナーシップ」に留まるアメリカとの関係に比べると、格段に高い位置づけである。

ベトナムと中国の間の最も深刻な対立は南シナ海における領有権と経済権益をめぐる対立である。ベトナムと中国は長い間で南シナ海を巡って激しい抗争を繰り広げてきた。

国力に劣るベトナムだが、南シナ海問題でのベトナムの毅然たる対応は東南アジア諸国の中で際立っている。中国がベトナムの国益を侵す行動をとった場合には、実力行使も辞さない厳しい姿勢をベトナムはとってきた。中国からの反発を恐れて南シナ海問題での中国批判を避けるASEAN加盟国があるなかで、ベトナムは国際法に基づく問題解決、とくにUNCLOSの重要性をASEAN文書の中で明記するよう繰り返し求めてきた。

自国の利害にかかわる問題では毅然とした対中姿勢を堅持しつつもベトナムは、中国と全面的な敵対関係に陥らないよう腐心してきた。ベトナムにとって隣国中国は巨大な国力を有した大国であり、中国とベトナムとの国力の格差は歴然としている。中国に毅然と対峙しつつも、中国を過度に挑発するのは得策ではない。また、ベトナムの経済発展に中国の協力は必要である。

時に激しく対峙しつつ、対立が制御不可能になるほどにエスカレートするのを避ける対中アプローチをベトナムはとってきた。抵抗と対決、安定と共存を同時に追求する巧みな外交がベトナムの対中政策を特徴付けている。

東南アジアでの大国間の争いと競争は近年激化している。大国政治の圧力は日々高まっているが、東南アジアの歴史を振り返れば、そうした時代を東南アジアは長い間経験してきた。その経験を通じて、東南アジア諸国の外交の体質の中に大国との付き合い方のDNAが形成されてきた。国家の独立や主権のためには大国の不当な要求は断固拒否しなければならない。しかし、国力に劣る東南アジア諸国は、国力に勝る域外大国との対決を続けるわけにはいかない。対抗し、戦いながら、同時に関係を安定化させる道を模索しなければならない。東南アジア諸国には歴史的に形成されたこうした外交の体質が等しくみられるが、東南アジア10カ国の中でベトナムとシンガポールはその姿勢が一貫している国である。

3、アメリカの「統合抑止("Integrated Deterrence")」戦略と東南アジア

シンガポールとベトナムでのオースティン国防長官やハリス副大統領の演説や発言が示唆するのは、「ありのままの東南アジア」を受け入れ、それを前提に東南アジア諸国との関係を強化しようという現実主義であろう。4

「ありのままの東南アジア」とは、第一に、東南アジアは中国の影響力が最も浸透している地域であるという現実である。とりわけ貿易や投資、インフラの整備など多面的な分野で中国の経済的影響力が深く浸透しており、これが東南アジア諸国の対中政策を大きく規定していることである。新型コロナによる経済への深刻な打撃は、いずれの東南アジア諸国にとっても中国との経済関係を一層重要なものにしている。

中国は、かつてのソ連と比べ、経済力、技術力、軍事力など総合的な国力において圧倒的に大きな力を有している。中国共産党はその統治にさまざまな課題を抱えながらも、これまで高い適応能力を示してきた。中国はソ連に比べてはるかに強靭である。先端技術を駆使した「監視国家」体制の整備によって、共産党体制は統治の脆弱性を補おうとしている。

これに対し、アメリカは東南アジアへの有力な投資国ではあるものの、市場開放などの魅力的な経済措置を東南アジア諸国に提供するのは国内政治上困難である。

1980年代以降、「アジア太平洋協力」への関心が高まるが、その背景には巨大で開放的で、しかも多様性に富んだアメリカの市場があり、これがアジア諸国をアメリカに引き付ける強力な磁力を生んでいた。アメリカは「アジア太平洋協力」を推進したAPEC(アジア太平洋経済協力)などの中核国として位置づけられていた。

いま、アメリカはそうした魅力ある施策を提示できない。新型コロナで経済が打撃を受け、その回復を最優先する東南アジア諸国に提示しうる魅力ある政策選択肢がアメリカには欠如している。東南アジア諸国を含むアジア太平洋の主要な地域自由貿易協定であるRCEPはアメリカ抜きで進められ、CPTPPにもアメリカは背を向けている。アメリカの東南アジア政策の最大の弱点である。5

しかもアメリカは遠方の地にある国家であり、アジアに位置する中国とは異なり、利害計算が変わればこの地域への関与を減らすかもしれない。アフガン撤退はそうしたリスクを改めて東南アジア諸国に認識させた。

これに対し中国は東南アジア諸国にとって、その高圧的な対外姿勢は懸念すべきだが、経済発展の機会を提供してくれる国である。東南アジアのほとんどすべての国にとって中国は最大の貿易相手国である。中国市場がさらに拡大すれば、さらなる発展の機会が期待できる。

東南アジア諸国が、経済的要件を書いたアメリカの「地域覇権」を支持する可能性は低い。米中対立の中で、東南アジア諸国が、対中経済関係の悪化をもたらすであろう「アメリカを選択する」ことは当面考えられない。

「ありのままの東南アジア」とは第二に、東南アジア諸国には、主権や自主、自立への強い希求があるという現実である。東南アジア諸国は独立以来長年にわたり大国の抗争の中で国造りを進めてきた。この結果この地域の諸国には、自国の主権や自主、自立を維持することへの強い決意がある。これがアメリカの外交資産になりうる。

東南アジアは域内諸国だけで自立した地域秩序を形成するのが難しい地域である。東南アジアは太平洋とインド洋を結ぶ国際通商路の中心という戦略的要衝に位置しており、大国はこの地域に大きな利害を有する。東南アジアの国際関係から域外の大国を排除することは困難である。実際、東南アジアはかつて「アジアのバルカン」と呼ばれるほどに大国の利害が交錯した不安定な地域であった。

しかしそうした大国の争いという厳しい地域環境の中で国造りを進めてきた東南アジア諸国の間には、大国政治の荒波の中で多大の犠牲を払って獲得した主権や自立を死守するという強い決意とそれを支える外交の知恵がある。6 冷戦後の相対的に大国関係が安定した時代ではあったが、ASEANが大国を相手に地域制度の形成に主導権を行使した歴史はその決意と能力の一端を示している。

いずれの東南アジア諸国にとっても、程度の差こそあれ、特定の大国がこの地域で圧倒的な影響力を行使することは望ましくない。今日中国は、アメリカがかつてそうだったように、グローバルな超大国になるためのステップとして、自国の周辺に中国の勢力圏を形成しようとしているといわれる。しかし、自らの主権や自主、自立を重視する東南アジア諸国がそうした中国の試みを唯々諾々と受け入れる可能性は低い。

歴史的な体験に裏打ちされた東南アジア諸国のこの対外姿勢に即した政策をアメリカが推進するならば、アメリカの東南アジア政策は、この地域の諸国の対外関係との相乗効果が期待できる。

オースティン長官のシンガポール演説にその萌芽が見える。オースティンは中国の威圧的な行動を批判し、地域の諸国がこれに怯むことなく対峙するよう強く求める。その批判のトーンは激しい。しかし、それを米中関係の文脈の中に位置づけるのではなく、東南アジア諸国の自立や主権の維持、国家の利益を守る国際ルールの維持強化という観点から強調している。

オースティン演説は、中国の高圧的、攻撃的行動が引き起こしている諸問題に対処することは、中国の対立でアメリカを有利にするためではなく、東南アジア諸国の今後の国家と国際関係の在り方に甚大な影響を及ぼす問題として提起している。植民地から独立し、大国間の利害が対立する地域で国造りを進めてきた東南アジア諸国の、自主・自立を求めるナショナリズムを鼓舞する言説である。

東南アジアは長い間大国の抗争の場であったために、この地域への大国の対応は、大国間の競争という視点に強く影響されがちである。アメリカのインド太平洋政策に東南アジア諸国が抱く不安は、アメリカが中国との対抗と競争という観点からもっぱら東南アジア政策を推進することである。東南アジアに対するアメリカの政策は、対中政策の派生ではないかとの疑念である。

これに対しオースティン演説は、東南アジア諸国へのアプローチにおいて、アメリカの利害や米中の競争と対立という観点よりも、東南アジア諸国の固有の歴史と彼らの対外行動の論理を踏まえることの重要性を示唆している。

これは近年のアメリカの東南アジア(アジア)政策に現れた新しい現象を反映しているのかもしれない。トランプ政権のアジア政策は、中国共産党体制の転換(「レジーム・チェンジ」)を唱道し、アジア諸国のそれへの同調を求めるかのごとき激烈な印象を与えた。

しかしその一方で、アメリカ政府の中には、自国の権威主義体制を反映した階層的で抑圧的なアジアの地域秩序を樹立しようとする中国を否定し、国家の主権や自立、自由な選択、法の支配などを基本原則とする「多元主義(Pluralism)」を地域秩序の基本にする必要があるとの意見も存在した。

アジアにおける「多元主義」の意義を提唱した米政府高官の演説がそれを示す。7 この演説は、大国政治を超えて、東南アジアを含むアジア諸国がこの地域の将来の国際関係をめぐるゲームに参加し、影響力を行使できる能力(agency)を有していることを指摘し、それをアメリカ政府が積極的に鼓舞することの重要性を強調している。

アメリカが目指すのは、中国との競争において、アメリカの圧倒的な力を背景にして東南アジアを自国の陣営に組み入れるというものではないであろう。それはもはや不可能であろう。また、国内の政治、経済、社会の立て直しを急務とするアメリカ政府が、冷戦時のような巨大な軍事、経済的負担を担うことも大きな困難を伴う。この地域に「アメリカの覇権」を復活するのは困難である。むしろ、アメリカが最優先するのは、中国の地域覇権が形成されるのを阻止することであろう。

オースティンやハリスの演説が示唆するのは、中国の不当な行動に抵抗し、国際社会のルールの維持強化という課題に自ら主体的に取り組む東南アジア諸国の努力を支援することである。東南アジア諸国の国家としての強靭性を高めるための試みをアメリカが支援することが重視されている。

アメリカの期待する東南アジアの国家像は、米中いずれを選択することもなく、しかし国際ルールを逸脱する中国に対しては毅然と対峙し、しかし同時に中国との関係を制御可能な範囲に維持する能力と意思を備えた国家であろう。オースティン国防長官のシンガポール演説の言葉を借りれば、「(米中いずれかを)選択せずとも中国(の不当な行動)に毅然と対峙する」国家である。

ベトナムにせよシンガポールにせよ、中国の不当な行動にこれまで抵抗してきたものの、中国との国力の格差は際立っている。両国が中国の剥き出しの力の行使に単独で抵抗するのは今後ますます困難になるかもしれない。これらの諸国の国家の強靭性を強化する新たな支援の仕組みつくりが不可欠である。

鍵になるのは、通俗的だが「パートナーシップ」である。オースティンのシンガポール演説が「パートナーシップという喫緊の課題(Imperatives of Partnership)」と銘打たれているのはこの点で示唆的である。

「パートナーシップ」の形成という点はアメリカには中国に対して比較優位がある。アメリカは、日本やインド、オーストラリアなどの同盟国や友好国をこの地域に多数擁す。それらの諸国もベトナムを始めとする東南アジア諸国の国家の強靭性強化の協力を積極的に推進している。

日本も東南アジアとの関係強化は長年にわたり外交の柱のひとつであった。2020年9月に就任した菅首相(当時)の最初の外遊先はベトナムであったし、岸防衛相の初めての訪問先はベトナムであった(2021年9月)。岸防衛相の訪越の際に結ばれた「防衛装備品・防衛技術移転協定」は、日越間の防衛協力をより高いレベルに引き上げるものであると評価されている。

インドやオーストラリアもベトナムとの経済(貿易と投資、サプライチェーンなど)や安全保障防衛の分野での協力を拡大している。

インドはかねてよりベトナムと緊密な関係を維持しており、モディ首相が進める「アクト・イースト」政策の有力なパートナーである。近年では防衛装備品の提供や海軍合同演習など安全保障分野での関係を深めている。

オーストラリアとベトナムの連携も進んでいる。最近では英仏などの欧州諸国も加わり、ベトナムの国家の強靭性強化にための多様なネットワークが形成されるつつある。

また、シンガポールに対しても、米日豪印などが経済(貿易や投資)、海洋の安全保障、サプライ・チェーンの見直しなど多様な分野で連携を深めている。

ベトナムやシンガポール以外の東南アジア諸国と日米豪印などとの関係強化も進んでいる。力を背景にした中国の高圧的、攻撃的な対外姿勢は東南アジア諸国の不安を惹起しており、「米中いずれも選択しない」という姿勢の一方で、東南アジア諸国の多くがアメリカや日本、インド、欧州諸国との安全保障協力を拡大している。

東南アジア各国の国家の強靭性を強化するための多数の諸国による複数の協力の仕組みを作り、それらを結びつけて相乗効果を促し、国家の強靭性を高める。これがアメリカ政府が現在提唱している「統合抑止」戦略の中心的課題であろう。

安定した地域秩序は、力の均衡と正統性によって支えられないと維持できない。8アメリカは引き続き同盟国や友好国と連携して、この地域の力の均衡の維持に大きな役割を果たそう。伝統的な同盟のネットワークと、新たに構築されたパートナーシップ(米印、米越、米星、日米印、日米豪などの多様なミニラテラィズム(minilateralism)の連携関係)がそうした力の均衡を今後も支えてゆくであろう。

正統性とは、地域の諸国がその秩序を正統なものとして受け入れることである。この点で米中二か国だけを軸に形成される地域秩序(例えば、アメリカの地域覇権や中国の一極構造、あるいは米中の冷戦や米中共同統治体制(G2)など)は、正統な秩序としてインド太平洋の諸国の支持を獲得することは困難であろう。東南アジア諸国の支持が得られる可能性はほとんどない。

また、米中両国が対立であれ協調であれ、米中両国だけが基軸となる地域秩序への地域諸国の抵抗を抑え込むことは困難であろう。アメリカがインド太平洋地域で引き続き主要な役割を演じるには、この地域の協力と支援が不可欠である。

中国の地域覇権も容易ではない。インド太平洋には、中国の地域覇権に抵抗する意志と能力を有した諸国が数多く存在する。これらの諸国のナショナリズムは強靭である。

アメリカが推進する「統合抑止」の戦略は、地域の平和と安定に共通の利害を有する諸国が多様なパートナーシップ関係を構築し、それらを結びつけたネットワークの相乗効果で東南アジア諸国の国家の強靭性を高め、東南アジア諸国をインド太平洋の地域秩序の担い手のひとつに育てることに長期的な狙いがあるといえよう。インド太平洋の秩序は今後、米中二国間関係を超えた、東南アジア諸国などのそのほかのインド太平洋諸国も含んだ多層、重層的なものになる可能性がある。

4、結び

地域の安定にとって力の均衡は不可欠の条件である。アメリカはこのためのアジア太平洋への関与を今後も続けるであろう。日米同盟を始めとするアメリカの伝統的な二国間同盟の強化に加え、米印、日米豪、日豪印、日米豪印などの新たな二国間関係と三国間、四国間の安保協力の強化がその有力な手段である。ミニラテラリズムの推進が地域の均衡を維持するためのアメリカの新しい取り組みである。多様な国家間協力をネットワーク化した「統合抑止」体制の強化である。

アメリカの「統合抑止」戦略は、アメリカがインド太平洋の力の均衡に引き続き大きな役割を担いつつ、中国主導の地域秩序の形成を阻止し、主権や自由な選択を尊重する秩序を維持強化するために、地域の各国の国家の強靭性を高めるための国家間の多様な二国間、三国間関係などの構築と、それらを結びつけるネットワークによる相乗効果である。

アメリカがすべてのネットワークの形成に関与し、責任を担うというよりは、地域の固有の体験とローカルな事情に通じた多様な国家の主体的な試みを支援し、全体としての相乗効果が期待できるように支援してゆくものであろう。

その際、長年にわたる大国の間の抗争を生き抜く中でこの地域の諸国が獲得してきた強靭なナショナリズムと巧みな外交術は、時にアメリカへの反発となって表面化することもあるが、この地域が専制国家の影響力のもとに置かれるのを防止するうえで貴重な資産であろう。

東南アジアという地域の固有の歴史体験とそこから生まれた対外行動の論理に合致したアメリカの政策は、同国に対する地域諸国の信頼の向上に資するであろう。それはまた、東南アジアの平和と安定に大きな役割を期待されているASEANの強化にも役立つであろう。

「米中の間で選択を迫られたくない」というこの地域の諸国の言説は、彼らが大国の対立と競争をひたすら傍観していることを意味しない。彼らは、多大な犠牲を払って獲得した独立と主権、過去数十年に渡る国家建設の努力の結果獲得した繁栄を守るべく、大国政治の荒波に果敢に立ち向かっている。

ベトナムとシンガポールはその代表例であるが、東南アジアの諸国には程度の差こそあれ、両国と同様の対外姿勢が見られる。そうした東南アジア諸国の動きを同盟国、友好国と共に支援し、彼らの国家の強靭性を強化し、東南アジア全体をインド太平洋秩序の担い手にすることの意義をアメリカは再認識したということであろう。それはアメリカによる東南アジアの新たな「発見」と言えるかもしれない。アメリカの東南アジア理解の深化を示唆するものである。

米中間の競争と対立は今後さらに激しくなるであろうが、アメリカは米中関係を超えたインド太平洋秩序を模索し始めている。アメリカのこの動きは、日本をはじめインドやオーストラリなどのインド太平洋政策や東南アジア政策と共鳴しあう部分が多い。新たなインド太平洋の秩序を構築するためのアメリカを含む地域協力を推進する条件が整いつつある。




2 国土が狭隘なシンガポールは、1970年代以降、台湾にある軍事施設を使用してシンガポール軍の訓練を行ってきた。
3 Ian Storey、"China's Missteps in Southeast Asia: Less Charm, More Offensive," China Brief, The Jamestown Foundation, Volume 10, Issue, 25 December 17, 2010.
4 Secretary of Defense Remarks at the 40th International Institute for Strategic Studies Fullerton Lecture, July 27 2021, Singapore https://www.defense.gov/News/Speeches/Speech/Article/2708192/secretary-of-defense-remarks-at-the-40th-international-institute-for-strategic/
5 中国のTPP-11加盟申請は、アメリカのこの弱点を衝いたものであろう。
6 菊池努「大国政治の変動と東南アジア:ASEAN政治安全保障共同体(APSC)の狙いと課題」『国際問題』第646号、2015年11月、5-15頁。
7 "The U.S., China, and Pluralism in International Affairs," REMARKS by DAVID R. STILWELL, ASSISTANT SECRETARY, BUREAU OF EAST ASIAN AND PACIFIC AFFAIRS, BROOKINGS INSTITUTION, DECEMBER 2, 2019larism
LINK: https://www.state.gov/the-u-s-china-and-pluralism-in-international-affairs/
8 Kurt M. Campbell and Rush Doshi, "How America Can Shore Up Asian Order A Strategy for Restoring Balance and Legitimacy," Foreign Affairs, January 12, 2021