※本レポートは、平成28年度日本国際問題研究所プロジェクト「国際秩序動揺期における米中の動勢と米中関係」におけるサブプロジェクトⅠ.「米国の対外政策に影響を与える国内的諸要因」研究会(米国研究会)における研究成果の一部である。
はじめに
残念ながら、これは予想どおり、トランプ政権が実施する政策が次々に波紋を広げている。選挙の公約を着実に守ることが、これほど批判されるのは前例のないことだろう。それだけアメリカが分裂し、亀裂が深いことを示している。分裂は、たいてい差別主義的で排外主義的なトランプ派と、平等主義的で寛容な反トランプ派との対立として描かれる。また、どうすれば差別をなくし寛容になれるか、ということが問われる。しかし、こうした見方なり問題の立て方だけでは、亀裂を深めることになりかねない。トランプ派のなかに偏狭な考え方をもつ者がいることはたしかだろう。しかし、かといって、アメリカ国民の半数近くが全て極端な思想をもっているとは考えにくい。とすれば、互いを一定の範疇に押し込むような見方は、相互に理解するばあいの壁をつくってしまう。これは、初歩的な留意点にすぎないが、そうした意識すら薄れるほど、対立は過熱していると思われる。
就任早々に連発された大統領令のなかでも、きわだって大きな波紋を広げたのは、入国制限を定めた大統領令だったと言えよう。これは、グローバリズムやテロリズム、あるいはブレグジットとも関連する重要な問題である。ここでは、その問題を歴史的かつ思想的に考えてみたい。そうすることで、トランプ派と反トランプ派の世界観を社会思想の観点から明らかにし、相互理解の糸口を探るためである。
1、アメリカは「移民の国」ではない!?
トランプ大統領は1月27日、指定した7か国からの入国を90日間、難民の受入れを120日間、一時停止する大統領令に署名した。反トランプ派は、これを宗教差別に基づく「_イスラーム入国禁止令」だと批判し、抗議デモや共同声明など、さまざまな手段で抵抗している。また、憲法の定めた信教の自由に反するのではないか、ということで法廷闘争も起こされている。それに対してトランプ派は、これはあくまでテロ対策のための「一時的な入国制限令」にすぎない、と反論した。もし宗教差別ならば、ムスリムの多い他の国も指定しているはずだし、そもそもこの7か国は、オバマ政権が「テロ懸念国」として指定した国にほかならない、と。指定から外れているアラブ首長国連邦の外相は、「ムスリムやイスラーム諸国の大半は影響を受けない」という見解を示した。たしかに大統領令の文言だけをみれば、反トランプ派の批判は、不当なレッテル貼りだということになる。しかし、これまでのトランプの言動からすれば、反トランプ派が、そこにムスリム差別の意図を読みとったとしても無理はないと言えよう。大統領令をめぐる法廷闘争は、その意図を焦点の一つとしながら、連邦最高裁までもつれこむ見込みである。
しかし、入国制限を定めた大統領令については、法的な観点以外からも考えておかなければならないと思われる。というのも、例えば、この大統領令には別の意図も含まれていたと考えられるからである。今回の騒動によってトランプは、テロが発生したとしても格段に自己弁護や責任転嫁がしやすくなった。自分は断固として公約を実現した。しかし、それを抵抗勢力が骨抜きにしてしまった。それでテロが起きたのだ、と。つまり今回の大統領令には、テロが起きたときの免罪符を手にする意図も含まれていたのではないか、と考えられるのである。もちろん、そうした自己弁護や責任転嫁も、反トランプ派には見苦しい言い逃れにしか聞こえない。しかし、トランプ派にたいする申し開きとしては十分で、政権へのダメージを軽減できる。さらには、支持者の団結を固めることさえできるかもしれない、ということである。
見過ごせないのは、この大統領令にたいして賛成する国民が予想以上に多かった、という事実であろう。質問の仕方や時期によって変わるが、およそ半数近くから、多いところでは57%が、今回の大統領令に賛成した1。このなかには、ヒラリーや民主党の支持者もいくらか含まれる。この世論調査の結果は、主要メディアのなかでは、驚きと嘆きをもって報じられた。なぜ、このように乱暴な大統領令に、それほど多くの国民が賛成するのか。国民のあいだでテロへの警戒心が高まっていることは分かる。しかし、それにしても、テロにたいする防止策は他にもあるはずである。移民や難民の入国を禁止するのは、あまりに料簡がせまく、思慮に欠けるのではないか。アメリカは、多種多様な文化をもった人びとの集まる「移民の国」にほかならない。歴史を振り返れば、アメリカは移民の活力によってこそ栄えてきたし、これからも移民の力は欠かせないだろう。その意味で「入国禁止令」は、アメリカの自己否定になるし、自滅を招く、と。
しかし、こうしたアメリカ像なり歴史理解は、トランプ派には共有されていない。もちろん、かれらも移民の子孫である。しかしトランプ派は、「移民の国」というアメリカの自画像について、違う受取り方をしているのである。反トランプ派とは対立するナショナル・アイデンティティや歴史観をもっている、と言ってもよい。トランプ派を建設的に批判しようとすれば、憲法や政治、経済における問題以外にも、そうした世界観における対立について理解しておかなければならない。
たしかにアメリカは、歴史を通じて多くの移民を受け容れてきた。しかし同時に、そうした多文化社会だからこそ、国民が分断されないように、連帯や統合の原理が問われ続けてもきた。アメリカの核となるものは何か。アメリカをアメリカたらしめているものは何か。そういうナショナル・アイデンティティが絶えず問われることになったのである。そして、多文化社会をまとめるための「アメリカの自画像」は、移民との関係で、およそ以下のように展開してきた。
第一に、アメリカはアングロ=サクソンを中心とした国である、という考え方があった。建国当時のアメリカは、多文化社会とはいっても、イギリス系住民が多数派を占め,政治や経済はアングロ=サクソンの諸制度によっておこなわれていた。しかも文化は、英語によって織り成され、アングロ=サクソン流の生活様式や価値が、移民の同化の基準になっていた。すなわち「アメリカ人になる」ということは,アングロ=サクソン化することを意味していたのである。これは「アングロ・コンフォーミティAnglo-Conformity論」と呼ばれ、おもに1890年代以降,非アングロ=サクソン系である東欧や南欧からのいわゆる「新移民」の流入が増したときに高まった。
第二に、アメリカは「人種のるつぼ」である、という考え方が出てきた。これは、アメリカという「るつぼ」の中で、世界各地からやってきたさまざまな人種や民族が溶け合い,文化的に新しい人間が形成される,すなわち「アメリカ人が生まれる」という考え方である。これは「るつぼThe Melting Pot論」とよばれ、1908年に、ブロードウェイで『メルティングポット』という戯曲がロングランになったことで広がった2。
それに対して第三に、アメリカは移民がそれぞれの特性をもったまま混在する国である、という考え方が出てきた3。移民は依然として、自らの属するエスニック集団の伝統文化を保持している。アメリカは、異質な文化が溶け合うのではなく、モザイクのように組み合わされた社会だ、という考え方である。これは、一般的には「サラダボウル論」として知られ、思想的には「文化多元主義cultural pluralism」として論じられる。実際には、おもに1950年代後半から60年代にかけての公民権運動や、70年代の「エスニック・リバイバル」などにおいて提唱された。文化多元主義は「アングロ・コンフォーミティ論」や「るつぼ論」とは異なり、「同化」をともなわない形で、多文化社会を思想的に基礎づけたのである。これでようやく、多様な文化が受け容れられるだけでなく、尊重もされる多文化社会になったと言えよう。ところが、多文化社会のさらなる進展は、その思想には収まらなかった。
2、文化多元主義と多文化主義
第四に、アメリカは多様性そのものがナショナル・アイデンティティになっている国である、という考え方が出てきた。これは、文化多元主義とは異なる思想で、多文化主義(multiculturalism)と呼ばれる。この二つは、多様性を尊重するという点で共通しているが、社会思想としては大きな違いがあり、むしろ対立するものとして理解しておかなければならない4。「アメリカは移民の国」という自画像にたいする受取り方の違いも、そうしたことを原因としている。では、その二つの違いは何か。
文化多元主義は、多様な文化の存在を尊重しながらも、連帯や統合を支えるものとして国民に共有された文化がある、と考える。また、その国民文化の中心には西洋の伝統文化がある、とする。いわば、多種多様なサラダの入る「ボウル」のほうは、西洋文化によって形成されていると考えるのである。
それに対して多文化主義は、西洋文化が国民文化の中心になることを認めない。そうした想定を、多様な文化を抑圧する西洋中心主義だと批判するのである。この思想は、1965年の「修正移民法」をきっかけとして形成されてきた。これ以降、移民の出身地域は、ヨーロッパ中心から中南米・アジア中心へと大きく転換していく。非ヨーロッパ系の移民が増大することで,1980年代から、西洋中心主義を批判する多文化主義が提唱されるようになったのである。ここに、国民文化を守ろうとする保守派と、多様な文化を追求しようとするリベラル派とのあいだで「文化戦争(Culture War)」が起きる5。
多文化主義における「文化」には、エスニックな文化だけでなく、女性や同性愛などの文化も含まれる。しかも、それを私的な領域だけでなく公的領域においても承認せよ、と迫る。基本的に、多文化主義によって承認を求める側は、自分たちの存在や文化は未だに正当に評価されていない、と考えている。自分たちはマイノリティだと自認しているのである。多文化主義は、社会において、平等な人間としての「権利」を求めるだけでなく、固有な存在としての「承認」をも求める点に特徴がある、と言ってよいだろう。自分の存在意義や社会での役割をめぐる問題にもなるので、「アイデンティティ・ポリティクス」としても深まっていくことになる。いわば「存在をかけた闘い」になり、切実な訴えとなっていく。かくてマイノリティの権利や承認は、自由の国アメリカでは第一級の課題として考えられるようになっていった。
こうした流れのなかで、白人による国民文化は相対化され、ときに攻撃されるようになる。それまで国民文化を担ってきたと自負するヨーロッパ系の白人は、次第に肩身の狭い思いをするようになっていった。2016年の大統領選挙で問題となった「ポリティカル・コレクトネス:PC」も、この流れのなかで理解しなければならない。多様な文化にたいする差別や偏見を含む言葉は使わない。それが「政治的に正しい」とされる。マジョリティの側が、差別されているマイノリティの存在を理解し、尊重し、承認するためである。
ところが多文化主義やPCが行きわたるなかで、白人の側では、逆差別とさえ思われる事態も出てきた。たとえば、西洋文化を重視する発言や姿勢そのものが「ポリティカル・コレクトネス」に反している、とされるのである。それに対して白人は、アメリカを担ってきたのは自分たちの文化ではないか、と反感を抱くようになった。しかし、PCの統制は厳しく、表立ってその感情は表現できない。こうして、人口も減少傾向にある白人は、自分たちを「抑圧されたマイノリティ」として捉えるようになり、鬱憤をつのらせていった。2016年の大統領選では、この鬱憤がトランプによって解放されたのである。ただし、これを一時の鬱憤晴らしと考えるわけにはいかない。いまや白人もマイノリティの意識をもち、人口のうえでも文化のうえでも抑圧されていると感じるようになってきたからには、今度の白人の叛逆は「存在をかけた闘い」にまで深まっていると考えられる。そのことは、今回の大統領選で白人労働者が「忘れられた存在」と呼ばれたことにも表れていると言えよう。
かくしてアメリカの自画像は、文化戦争によって分裂した。一方で、アメリカは移民の国であり、多様な文化を尊重することそのものがアメリカのアメリカたる所以だ、という考え方がある。これは、多文化主義による自画像だといってよい。そうした世界観からすれば、たとえ入国禁止ではなく一時的な入国制限であっても、排外主義と映ることになる。
それに対して、アメリカはヨーロッパ系白人の移民が基礎をつくり、歴史的にも白人文化が核となって多文化社会を発展させてきた、という考え方がある。これは文化多元主義による自画像だといってよい。そうした世界観からすれば、「移民の国」ということだけを強調するのは、白人の歴史的功績や存在意義を不当に扱っているように映る。白人が受け皿を形成してきたからこそ、多様な移民を受け入れることができたし、西洋の文化が共有されていたからこそ分裂せずに繁栄できた。白人の文化が危機にさらされ、雇用が奪われ、さらにはテロリズムの危険にさらされているからには、一時的に入国を制限するのはさして不当なことではない、ということになる。およそ反トランプ派とトランプ派の世界観は、そのように対立していると考えられるのである。
おわりに
「アメリカは移民の国である」という自画像は、それだけではアメリカ国民を連帯させるものにはなりえない。移民の国の基盤を支えてきたのは自分たちだ、と自負する白人が相応の「承認」を求めているからである。しかも、いまや白人は、人口のうえでも文化のうえでも自分たちをマイノリティだと捉えるようになってきた。そうした意味で「存在をかけた闘争」をはじめた白人が、トランプ支持にまわった、と考えられるのである。
しかし、トランプ派であっても、極端な思想の持主でなければ、多様な文化を尊重するのがアメリカの特徴であり強みである、ということを認めないわけではない。ただ、何をもって連帯するか、という理念やナショナル・アイデンティティが一致しないのである。とすれば、ここに相互理解の糸口があり、今後の課題があると考えられるだろう。これは、多様な文化を含みながら、いかに連帯するか、というアメリカの古くて新しい課題にほかならない。改めてこの課題に取り組むには、少なくとも20世紀初頭以降の社会思想を振り返り、とくに文化多元主義と多文化主義の違いについて考え直さなければならない。文化多元主義には、もはや西洋文化をそのまま連帯の原理にするわけにはいかない、という弱点がある。一方、多文化主義には、多様性を称揚するだけでは国民が分裂してしまう、という弱点がある6。2016年の大統領選挙では、その弱点が如実に現れてしまった。また、他にも考えなければならないことは多い。なかでも、宗教的要素が重要である。アメリカの国民文化も、精確には白人というよりWASPによって形成されてきた。また、現在焦点になっているのは、中東からのムスリム移民である。そうした宗教的次元での文化戦争が大きな問題になっているのである7。しかし、トランプ以降のアメリカの自画像を描こうとすれば、まずは「アメリカは移民の国である」というアメリカの自画像や歴史理解について、あらためて議論を深めていかなければならないと言えよう。
1 Ariel Edwards-Levy, ”Americans Are Split Over Donald Trump’s Travel Ban: Most view the executive order as specifically intended to target Muslims,” The Huffington Post, Feb 02, 2017.
2 ミルトン・ゴードン『アメリカンライフにおける同化理論の諸相:人種・宗教および出身国の役割』晃洋書房,2000),81-127頁。
3 こうした考え方は1915年、ユダヤ系アメリカ人の哲学者であるホレス・カレンによって提唱された。Horace Kallen, “Democracy Versus the Melting-Pot,”Nation, February 18, 1915, pp. 190-194, February 25, 1915, pp. 217-220._
4 社会思想の観点からではなく、広範かつ具体的な視点から「移民の国」について論じたものとしては、西山隆行『移民大国アメリカ』ちくま新書、2016年が参考になる。本書はまた、トランプ以後の移民政策についても示唆に富んでいる。
5 一般に「文化戦争」とは、妊娠中絶、同性愛、公立学校における祈り、進化論、移民、銃規制などをめぐって、保守派とリベラル派が対立することをいう。思想的には、リベラリズムの進展や、ヒッピー、ドラッグ、フリーセックスなどの「対抗文化(Counter Culture)」の興隆が大きく作用している。こうした思想・文化的な潮流が、アメリカの伝統文化を攻撃し、1970年代に現在の対立構造を形成したのである。そうした対立は、多文化主義の興隆もあって1980年代から1990年代にかけて盛んになっていった。その根底には、アメリカという国の定義をめぐる争いがある。James Davison Hunter, Culture Wars: The Struggle to Define America, Basic Books, 1991.
6 この弱点は当初から、アーサー・シュレジンガーJr.など、文化多元主義にたつリベラル派の論者からも批判されてきた。詳しくは、藤本龍児『アメリカの公共宗教:多元社会における精神性』NTT出版、2009年、第五章参照。
7 この点については、藤本龍児「トランプ現象の震源:反グローバリズム?/文化戦争/宗教復興」『米国の対外政策に影響を与える国内的諸要因』日本国際問題研究所、2017年。